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第5話

 ぽんぽんぽん、という律動とともに、船は瀬戸内海を震えながら進む。


 次々と知らない島影や水道が見えてきた。このあたりは海軍の最高度の機密性を帯びた新兵器や新造艦などのテストを行う場だった。陸側からは見えないよう巧みに隠蔽され、戦前、戦中は民間船が航行できるようなところではなかった。だから、僕もこの風景を見るのははじめてだ。


 数百メートル前方で、大きな円筒形の浮標ふひょう(ブイ)が波間に揺れるのが見えた。離れた場所にも同じようなものがいくつか散っているようだ。それらは相互に連結され、海上から船が侵入できないように処置されている。


 噂には聞いていた。

 ここは、古来「禁域きんいき」と呼び習わされる瀬戸内海の危険地帯で、浅海底に突如として大きな亀裂が入っているとされる場所だ。亀裂の底からは絶えず深海の水と熱気が噴き出し、この周辺に潜る海人あまや潜水士の耳には、水中なのに、なぜか不気味な歌や唸り声が聞こえてくるという。


 やがてこの地域一帯を占有した海軍は、すべての船舶の通行と民間人の潜水や漁撈ぎょろうを禁じた。新艦艇の試験場だからという理由だが、もっと大きな秘密があると言う者もいた。しかしやがてその存在自体が全ての公文書や出版物から消され、軍機密として扱われるようになっていた。


 同じ伏龍隊にいた友人の野崎という男は、もう少し詳しい事情を知っていた。


 大陸棚の上にある浅海の瀬戸内にそのような亀裂が生じることなど、本来は、地球物理学的にあり得ない。が、最新の大陸移動説を唱える一派がいうには、そこは、万年億年の尺度で移動を続ける海中の大陸プレートが、別のプレートに直接、接する場所なのだ。地球内部のどろどろに溶けたマントル対流の力を動力源にした各プレートは、対流の方角の違いによって相互にぶつかり、無言のまま、人間には想像もつかないような偉大な力で押し合う。そして片一方がもう一方の下に沈み込み、海底全体を引きずりながらマントルの闇の中に姿を消してゆく。


 たまに、引っ張られたプレートの一部が跳ね返り、急激な地殻変動が起こることがある。先年の東海地震や三河地震、そしてかつて関東を襲った大震災などは、この、ほんのちょっとした反作用がもたらした、ほんのささやかな災厄だ。


 そしてこの禁域に生じた亀裂も、そうした偉大な地球の闇がもたらした創造物である。

 亀裂の底は信じられないほどに深く、誰もそこに到達することはできない。だが、地球内部に由来する貴重な鉱物や化合物などが堆積たいせきしていることが、前記の大陸移動説では理論的に推定されているのだそうだ。


 海軍は、この一帯を立入禁止の聖域とすることで、主として外国資本による資源の収奪を防いでいる。そして、密かに深海を探査できる潜水船を呉軍港の一角の工廠こうしょうで試作し、決死的な志願者をつのってもう何度も探索を試みているという。


 その結果については、もちろん何も発表されていない。おそらくは失敗続きなのだろう。戦前より何度か続いた試作潜水艦の事故というのは、おそらくは探索行とその犠牲者の死因をおし隠すための目眩めくらましに違いない。


 海軍は、本当は対米戦のためなどではなく、この海底のお宝を引き揚げるために膨大な予算を使い続けているのだ。


 野崎はそのようなことを、深夜、皆が寝静まった後に、小声でハンモックの上から語り続けた。そして伏龍も、おそらくはそうした深海探査に応用するために推進されている計画だと言う。


 対米戦のためではないのだ。祖国防衛のためでもないのだ。

 僕たちは、強欲な資本家や、それと癒着し、いとも気軽に人命を散華させる特権を持った軍上層部の欲心のために、ただ使い潰されるのだ。


 僕たちが毎日のように海底に潜る理由は、研究データを蓄積するため。一種の人体実験だ。まだ若い、十代の肉体がどこまで海底に順応できるかを探るためのものだ。そしていつか、僕らではない別の誰かが、最新鋭の潜水艇に乗って亀裂の底に達する。そして底を浚い、ほじくり返してなにか目ぼしいものを探して回る。


 野崎には多少、偏執症的なところがあった。頭はべらぼうに良いのだが、こうと思い込むと、なかなかその想念の牢獄から脱出することができなくなるのだ。周囲の人間は、もちろん僕も含めて頭脳の働きでは野崎に遠く及ばない。だから、彼がそうと思い込むに至った理由をうかがい知ることができず、説得ができない。ただ彼が自然に自らの思い込みに気づき、軌道修正するまでは、何もすることができないのだ。


 このときも、僕はきっとまたその病気が出たのだろうと思って気にしなかった。


 そもそも、僕らが潜る深度はせいぜい15メートルか、深くても20メートルくらいのものだ。水深10メートルを過ぎると、潜水病を防ぐため、まず数分間動きを止める必要がある。海底では僕らはそのくらい動きを制約された存在なのだ。20メートルに達しても、基本的にはあまり派手に動き回らない。動くと、そのぶんだけ酸素を消費してしまうからだ。浄気缶の作用で、ある程度は再循環させられるが、いつかは尽きてしまう。そうなれば僕らはまた、来たのと同じくらいの時間をかけ、潜水病に気をつけながらゆっくり浮上しなければならないのだ。


 20メートルですらそんな按配あんばいだ。野崎は、軍はさらに深々度へ僕らを投じる計画だと言う。が、潜水服がたないし、そもそも深ければ深いほど、それだけ水圧がかかるのだ。探査のため自由な行動をとることなど、到底不可能だろう。僕らは魚ではないのだ。


 野崎はなおも熱にうなされているように喋り続けたが、ついにそれを聞き咎めた同室の仲間が、うるさいな、黙れ、と叱った。


 今にして思うと、なぜ野崎が伏龍隊へ選抜されたのか不思議でならない。頭はよかったし、器具の取り扱いや潜水もうまかった。精神力も強かったし命令も必ず遵守じゅんしゅした。なにか予想外のことが起きても常に冷静に対処した。優秀な隊員だった。


 だが、あの思い込みの強さと偏執的性向はやや異常だった。事前の志操調査や情操調査でよくねられなかったものだと思う。もちろん当時は極端な人材不足で、あれだけの優れた知能と技能、体力を持った兵を海軍がほっておくわけはないのだが。


 話が、それた。禁域の話だ。

 要は、なぜそこが存在自体を秘匿されているのか、誰もその正確な理由を知らないということなのだ。いや、知らなかったというべきか。




 機帆船はこの浮標で囲まれた禁域を大きく迂回し、回り込むように海を進んだ。やがて、目的地の大咲島海軍基地が見えてきた。広い禁域は、一端がそのままこの島に接している。


 もちろん言うまでもないが、その名称は、以前は大裂島と表記されていたのが、あとになって所有者である海軍の意向により大咲島と変えられたものだ。ご念のいったことに、島内にはあちこち桜が植樹されており、春先には島全体が薄いピンク色になり、派手に桜吹雪が舞い散るのだそうだ。


 たしかに、いま島を眺めてみても、あちこちに桜とおぼしき黒々とした樹木が這っているのが見える。島内に山はなく、全体が平坦な地形なので、桜以外にも、そこにあるほぼすべてのものが見えた。


 島の中央部にはいくつも大きな建屋が並び、その合間から煙突の黒い影が何本か伸びているが、白煙は出ていない。黒く塗られた大きなガントリー・クレーンも見える。そして島から約30メートルほどの沖に、特徴的な構造物が見えた。


 海面から、とつぜん斜めに突き出した箱のような構造物である。

3月の敵機動部隊による航空攻撃で撃破された航空母艦、海龍かいりゅうの残骸だった。完成直前の高速新鋭空母というふれこみだったが、本土空襲が激化したためドックから避難させられ、そのまま大咲島の海岸に横付けされ、偽装網ぎそうもうで陸地とつながれて、空母と見破られないように処置されていた。


 だが、敵軍はどうやらその情報を事前に掴んでいたらしい。まるで知っていたかのように、上空に無数の艦載機が殺到した。彼らにも手違いがあり、発射した魚雷は海底に突き刺さってことごとく不発だったが、爆弾数発と無数のロケット弾とを叩き込んだ。海龍は横転し、大破した。沈没しなかったのは、ここが浅い海だったからだ。だが、完全に戦闘力を失ったことには変わりない。再び浮揚して再装備するだけの余裕はもはや祖国にはなく、海龍は今でもこうして赤錆あかさびた無惨な姿をさらしているのだ。


 長い飛行甲板が横倒しとなり、爆弾の貫通痕と、ところどころリノリウムの板が剥がれ落ちているのが見えた。甲板のへりには特徴的な下向きの煙突が二基と、小ぶりな艦橋が突き出している。もちろん乗組員は誰もいない。艦載機もない。これは、すでに死んでしまった龍のむくろだった。


「こいつは、まだ運が良かったんだ」

 とつぜん、機帆船に乗り合わせた誰か知らない男が言った。

「艦内にはほとんど誰も居なかったからな。しかも大破着底だから、ほとんどが海に飛び込んで逃げおおせた。俺もその中の一人だ。だが」


 こう言って、いま来た禁域のほうへ顎をしゃくった。

「あっちにいた雷鳳らいほうのほうは、そうはいかなかった。中にいた奴らは、逃げる間もなかった。そのまま沈んで、今は禁域の裂け目のどっかに引っ掛かってる」


 エンジンのぽんぽんという長閑のどかな音だけが響いた。男はそれきり黙った。


 僕も、噂には聞いていた。3月の空襲のとき、この大咲島に横付けされていた空母が二隻やられた、と。一隻はいま見た海龍だ。そしてもう一隻、戦局打開の期待を受けて竣工したばかりの巨大な重装甲空母も撃沈されてしまったと。こちらは海龍ほど運がなく、そのまま海底の深淵に落ち込んでいってしまったというのだ。


 僕はその名を知らなかったが、そうか、雷鳳というのか。



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