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第7話

 そのような、本当にとりとめのないことを考えながら、僕は岸壁を歩いていた。

 そして、前方に不思議なものを見つけた。


 ほんの30メートルほど前方に、麦わら帽を被った男が、みかん箱に座り海へ釣り糸を垂れているのだ。


 僕はぎょっとして立ち止まった。

 ここはすっぱりと裁ち切られたようなまっすぐの岸壁の上だ。平坦な白いコンクリートが続いていて、遮蔽物はなにもない。奇妙なくらいに整頓された、ある意味では清浄な、まるで寺院の庭園のような場所だ。


 さっきまでは、そこに動くものは、何もいなかった。

 あとからやって来たのかもしれないが、だとすれば、まっすぐ歩いていた僕は必ず気づくはずだ。ずっととりとめのない想念に囚われてはいたが、前方を移動する釣人を見落とすほどに気が抜けていたわけではない。


 あの男はいつ現れたのだろう。いや、どこからやって来たのだろう。

 不思議だった。


 気がつくと、陽が相当にかげり、あたりは薄暗くなりはじめている。とはいえまだ10月だ。いきなり真っ暗になることはないだろう。僕は、もう少しだけ歩を進めて、この不思議を突き詰めてみようと考えた。


 すぐ近くまできたが、男は変わらず、悠然と釣り糸を垂れている。竿は粗末な竹でできている。おそらくは手製だ。糸は岸壁から5メートルほど下の海面に下がっている。同じく竹製と思われる浮きがぷかぷか・・・・と波に揺れていた。


「当たりは来ますか?」

 僕は呼びかけた。


 我ながら間の抜けた問いだ。男はきっといまここに来て、海に糸を投げ込んだばかりに違いない。釣れるか釣れないかを判断するには早すぎるはずだ。

 僕は彼よりも先にこの岸壁を歩いていた。彼よりも先にこの場所にいたのだ。そんな僕が釣れるか釣れないかを問うのは、まるでこの男がすでにそこに存在していたのを、嫌々ながら認めてしまうのと同じだ。なんで、こんな馬鹿な質問をしたのか。


 いや、僕はおかしくなっていない。さっきまで、この男はここにはいなかった。だから僕は、絶対にこんな聞き方をしてはいけない。


 だが、なぜか他に声のかけようがなかった。僕は自然にそう聞いた。男は答えた。

「ああ、けっこうあるよ。今日は悪くないね」


 そう答えたが、こちらを向こうとはしなかった。麦わら帽の広いつばに隠れて、表情は全くわからない。肌が浅黒いのはわかったが、強い日差しで何時間もじりじりと焼かれる以上、海で釣り糸を垂れる人間はみんなそうだ。


 僕は仕方なく男の真横まで近づいて、そこに立った。本当は身をかがめてその顔を覗き込んでやりたかったが、そうすることには抵抗があった。


 すると、今度は逆に男のほうから声をかけてきた。

「あの病院の瓦礫拾いだね。たくさん来ているようだが、君たちに今夜、寝るところはあるのかね?」

「え、ああ、ありますよ。蒲鉾屋根の大きな建物があって、その床にみんなで雑魚寝だそうです」


 僕は答える。やや警戒心が先に立ち、仲間とも思っていないあの連中と一緒にいるということを強調した。すると男は、妙な声で笑った。咳なのか笑いなのかわからない、ひーひーとどこからか空気が漏れるような笑い声だ。


「そうか。それはよかったな。あそこなら、まずとりあえずは無事に寝られる」

「とりあえず、とは? なにか危ないことでもあるんですか?」


 僕は反問して、あたりを見渡した。すでに動きを止めたクレーンや、もはや主のいない巻上用ウインチやそこから伸びる鋼製のワイヤー、きのこのようににょきにょきとあちこち突き出した丸い繋船柱けいせんちゅうなどが見えるばかりで、とくに危険なものはなさそうだった。


「まあ、細かいことはいい。とにかく早めにそこへ行って、早めに寝ることだ」

「日頃は来れないところにせっかく来たんですし、こうして、海や廃墟を眺めるのも味がある。僕はまだこのあたりをぶらぶらしてようと思うんですがね」


 こう言うと、男はこちらを見上げた。その顔貌や表情が見えた。

 典型的な、海辺の老人だ。

 浅黒く日焼けし、やや幅のひろい顔でしっかり頬骨が張っている。目は大きく、くちびるは黒ずみ、あちこちひび割れている。


 ただその男の瞳は独特だった。茶色い虹彩こうさいの真ん中にある瞳孔どうこうの大きさが、左右でうんと違う。また、それぞれ向いている方角が違い、はたしてこちらを見ているのかどうか、一見しただけではわからない。さらに、瞳の全体に白いくすみが薄い膜のように張っていて、なにを考えているのか、心のうちを瞳から読み解くことは難しかった。


「なるほど、このあたりをね。君は変わってるな。ここは特に何もないところだ。そうは思わないかね?」


 ひどく変わっている男に、変わっていると言われてしまった。

 このあたりに何もないのは、たしかにその通りだ。だがいきなり出現したこの男だって、こんな寂しいところで、ぽつねんと一人で釣りをしている。


 とても妙ちくりんな状況で、妙ちくりんな会話だった。だが男はとつぜん、沖合のほうを見て言い足した。

「ああ、だが、あそこにはあるな。特別なものがある。この大地の臓物を収めた深淵だ。もしかすると君は、それを覗きに来たのではないかな?」

「しんえん?」

「君たちが、亀裂とか秘密実験場とか呼んでいる海の底のことだよ。ああして仕切られている一帯だ。古来、地元では禁域と呼び習わされている」


 言って、男は浮標群のあたりを指でまるくなぞった。

「あの中心部に、深い深い亀裂がある。遥かな昔から人々に恐れられた、地獄へと通じる門だ。そこへ潜った者はいない。少なくとも、潜って帰ってきた者は、まだ誰もいない」


「やけにお詳しいんですね。その話はただの伝説か、あるいは秘密実験を目眩しするための、軍の防諜ぼうちょう策なのかと思ってました」

「君はいま、まさにそう考えながらここまで歩いてきたよね」


 僕は、ぎょっとした。たしかにさっき、そのようなことを考えながら岸壁を歩いていた。この老人は、僕の心が読めるのだろうか。

 僕の驚きとおびえを見てとったのか、老人は微笑を浮かべた。


「わしが深淵のことを話すと、誰もが同じようなことを言うんだよ。そして強がる。本当は怖くて仕方がないくせに。いやそれ以前に、ここまで歩いてくる物好きは、その全員があの深淵になにか思いがある人間だけなんだ。そして沖を見ながら一生懸命に自分へ言い聞かせる。あれはただの噂だ、なにかのごまかしなんだと。これまで一人の例外もない。だから君も当然そうだろうと思ったまでのことだよ」


「そうですか。びっくりしましたよ。ひょっとして、読心とくしんの術でもお持ちなのかと」

「人の心など、読んでもいいことはひとつもない」

 老人は吐き捨てるように言った。


「人の心など。それは実にくだらないものだ。要するに、人間は本能と欲望だけで生きている、ただ地球上のいち生物にすぎない。寝る、食う、生殖する、そしてすべてを我がものにする。人間が望むのは、ただそれだけのことだ。ただそれだけのことをもっともらしく装飾し、仰々しい警句や箴言しんげんや教義にし、まるで価値のないことを、なにやらとにかく高尚そうに見せかける。そしてそれを世界の真理だと臆面もなく同種の動物たちに説いては信じ込ませ、いいように操り、際限のない収奪と殺戮を行う。それが人間という動物のすべてだ。そう、ついこの前まで、身をていして君も手伝っていたことだよ」


 ふたたび、僕の心が読まれたのかと思った。

 なぜなら、老人の言うことのいちいちが、ここ数日、僕の考えていたこととほぼ一致していたからだ。彼の言葉は、僕の心を射抜いた。そして僕はつい先日まで自分が狂奔していた、まさにその戦争の意味を考え直していたからだ。

 だが再び、それは考えすぎであることに気づいた。


 僕は普通の復員兵と同じ格好をしている。半袖の防暑襦袢ぼうしょじゅばんにカーキ色の軍袴ぐんこ、そして巻ゲートルに軍靴だ。広島市内で被爆者の救護に当たり、毎日汗だくの服を着替えるうちに、上から下までそこらで同じ作業にあたる陸軍兵と同じになってしまったのだ。


 老人は、そんな僕の格好を見て、戦争に狂奔したと言ったにすぎない。僕は、気づいてほっと息をついた。そして、先ほど気になったことについて聞いた。

「はやく戻ったほうがいいと、さっきそう言いましたよね。あれはどういう意味なんですか」


 老人は、ふっと気の抜けたような笑いを浮かべた。そして、それきり僕には関心を失ってしまったようで、ふたたび海に向かい、釣り糸の先でぷかぷか上下する浮きのほうを見つめた。僕はかさねて聞こうと思ったが、最初の一音だけを発音し、そしてやめた。


 周囲はもうかなり暗くなってきている。いつまでもここで時を過ごすより、やはり、早く仲間のいるところへ戻った方がいいような気がしてきたのだ。

 老人の背中を見たが、もうなにを尋ねても答えてくれなさそうに思えた。


 僕は二、三歩あとずさりし、戻ろうかどうしようか、しばらく作業現場のほうを振り返って考えた。


 すると、老人がなにかブツブツ言うのが聞こえた。最初はどこか外国の歌でも歌っているのかと思った。だが、それは奇妙な抑揚のついた、どちらかといえばお経のような節回しの歌だった。ぶつぶつ小声で呟くだけだから、それが日本語であろうと外国語であろうと、僕には全く聞き取ることができない。当然、内容もわからない。


 老人の意識は、どうやら、完全にこちらとは切断されてしまったようだ。

 そろそろ、散策の切り上げどきだった。


 僕はそのまま腕組みをして、なにも言わずに岸壁を離れた。そして闇に沈みつつある作業現場のほうへ歩いていった。

 途中で振り返ったが、麦わらを被った老人の影は、もはや岸壁に突き出す小さな黒い突起にすぎなかった。彼はこのままここで夜を明かすつもりなのだろうか。いや、そもそもどこから来たのだろうか。それとも、この島のどこかに住んでいるのか。

 わからないことだらけだった。


 やがて白いコンクリートが尽き、あの懐かしい、瓦礫と硝子片だらけの作業現場に辿り着いた。僕はなんだか、なんというか、ただ心の底からとても安堵した。

 そしてもう一度、岩壁のほうを振り返った。


 そこにあるのは、ただの白い岩壁。海から吹き寄せてくる微風が、ものも言わずに通り抜ける道筋だ。


 さっきまで座っていた老人の姿は、もう岩壁のどこにも見えなかった。


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