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第8話

 白い砂の上に伏せていると、とつぜん、コツコツと背中を叩かれた。


 ここは瀬戸内海の深度20メートルの海底だ。このくらいの深さになるとまず陽の光は届かないはずなのだが、ここは、なぜかほのかに明るかった。


 僕は海底にひとりきりのはずだったのだが、突然、背中を叩かれた。正確には、酸素ボンベの上に背負う空気清浄缶の上を叩かれたのだ。


 だがそこはもっとも壊れやすい部位で、しかも壊れると破滅的な事態を引き起こす。この清浄缶は危険な欠陥装備だ。ペラペラのアルミでできた、まるで子供たちが笑顔で振るドロップ缶みたいな代物である。ただでさえこの水圧だと微妙に皺が寄っているような気がする。そこにさらに圧力を加えるとは! 


 もし缶が破れ、中に海水が流入して苛性ソーダと反応すると、僕は、熱水に肺を焼かれてここでもがき苦しみ、死ななければならないのだ。苛性ソーダよりも先に、僕の全身の血液が逆流しそうになった。


 すぐに身をよじって反応しかけたが、そうした激しい動きは禁物である。小さな傷を、さらに大きく拡大してしまう危険性がある。まず事態を把握し、それに正しく対処しなければならない。僕は動かなかった。日頃の訓練の成果である。


 もしかすると、大きな亀やその他の海棲生物などが、珍しい姿かたちをした僕に興味をもって、素朴な好奇心から無邪気に接触してきたのかもしれない。だとすれば、静かに反応して軽くいなせば、彼らはまた静かに離れていくはずだ。


 だがすぐに、それは自分が高度の知性ある生物であることを示した。

 はじめは缶の上をザラリとなぞるように長い接触があり、次に短く、そして軽くタンタンと二回叩いてきた。


 覚えがあった。「チョー・タン・タン」だ。海底到着、という意味である。

 僕らは訓練の初期過程で、ほんの浅い、背丈ふたつぶんくらいの浅海に潜った。すぐ真上に、自分が乗ってきた和船の底が見える程度の深度だ。

 船の上には、戦友が待機している。彼は手に僕の腰につけた縄を持っており、これをグイと引いて指示を伝えてくる。その逆もできる。


 「チョー・タン・タン」は、だからまず海底に着いたあと僕が送るべき符号で、了解したら相手も同じ符号を返してくる。

 同じような簡単な符号で、進む方向や、安否の確認、また浮上せよといった意思疎通ができるようになっていた。


 つまり今の接触は、「自分も海底に到着した」という意味になる。

 ということは、いま背中に触れているのは人間だ。さて、いったい誰だ?


 僕の真横にやってきたのは、野崎だった。潜水兜につけられた楕円形の覗き窓を通して、彼は僕に微笑みかけてきた。

 そして手真似と、今度は「水電話」で、ヒサシブリダナ、と挨拶してきた。


 水電話、とは、僕ら水中攻撃隊の隊員の間でだけ使われていた用語だ。

 当初からこの特殊潜水服の空気清浄缶は、つくりが簡易で脆弱な構造だった。僕らにはとても不思議なことだったが、実は、軍はあえて意図してこうしている、という噂がたった。水中の聴音のためである。


 接近してくる敵水上艦艇のスクリュー音は、水中を音波として伝わってくる。それをあえて薄くしてある清浄缶の共鳴で拾い、いちはやく攻撃にうつれるようにする工夫だというのだ。


 慣れるまではとても危険で、訓練段階で悲惨な事故を招く場合もあるが、たとえば僕や野崎のような特級潜兵になると、まずまず安全に使いこなすことができる。そうなれば、伏龍はいわば地上の野生生物のような鋭い耳を持って海底に潜むのと同じことになり、より良い位置から、より効果的な一撃を敵に喰らわすことができるというのだ。


 いわば、初期の訓練はそれ自体が選抜試験のようなものだ。僕らのような特級潜兵を残し、あとは振り落とされる。

 いずれ我が本土に敵が来寇してきたら、どうせみんな死ぬのだ。僕らは敵と差し違えて死ぬ。彼ら振り落とされた者どもは、それよりも前、苛性ソーダに内臓を灼かれて死ぬ。無情だが、ただそれだけの違いだ。


 さて、水電話のことだ。

 僕らは、その水中聴音の原理を聞くのと同時に、教官から別の可能性を聞いた。


 それは、この清浄缶を利用して会話ができるかもしれぬということだ。日々この潜水装備の研究と改良にあたっている横須賀の教官たちは、すでに水中である程度の意思疎通ができるようになっているという。


 特級潜兵ならば、横須賀と同じことが、必ずできる。

 僕らはそう期待された。そこで、長い長い水中待機の時間のあいだ、海底で何度も試してみた。軽く触れ合う程度ではだめだった。そこで互いに背中合わせになり、慎重に位置を決めて清浄缶同士をすりつけ合ってみたが、それぞれの潜水兜の中に響いてくるのは、ぐわんぐわんという、渦のような遠鳴りばかり。とても会話ができるような可能性は感じなかった。


 野崎とも何回も試してみたが、結果は同じだった。

 そこで僕らはこれを、仲間内では「水電話」と称した。子供の使う糸電話よりも原始的だという侮蔑の意図がこもっている。


 特攻隊員が上層部を公然と批判することはできないが、僕らの仲間の命をきわめて雑に扱う彼らが熱心に推奨する新技術に対し、僕らは積もり積もった鬱憤を晴らすため、あえておとめるような名称を使ったのだ。


 しかし、今のはまるで違う。軽く身体を傾けて清浄缶を接触させただけで、野崎はいとも朗らかな顔で気軽に話しかけてきたし、僕も気がつけば、コレマデドコニイタ、と綺麗に返すことができていた。


 いったい、いつ僕らはこうまで完璧な水中会話の技術を習得したのだろう? 

 とても不思議なことだった。


 野崎は、そんな僕には構わずに続けてきた。

「イロイロ、サグッテタ」

「ナニヲダ」

「シンエン」

 瞬間、野崎の言うその意味がわからず、僕は動きを止めた。すると野崎は、強く足ひれで水を掻いて、ぐるりと僕の正面に回り込んできた。


 しばらく、楕円と楕円を介してお互いを眺めた。

 野崎は、いきなりニヤリと笑った。そしてふたたび大きく水を掻くと、自分のいた方角を指差しながら脇に飛び退いた。僕の目の前の視界が広がる。そしてそこに広がる海底に、大きな亀裂が走っているのが見えた。


 僕はおどろいた。

 瞬間、あれだけ訓練した、鼻で吸って口で吐く、例のリズムを忘れてしまったほどだった。そのことに気づき、あわてて呼吸を整えた。数秒後、落ち着きを取り戻し、改めて前方を見てみたが、風景は変わっていなかった。


 いちめんに広がる白砂の海底がなだらかに沈降していき、20メートルほど前方からいきなり急角度で切り立った崖になっている。

 底は見えない。ただの暗闇である。向こう側にも崖があり、目測でだいたい100メートルくらいであろうか、大きな亀裂となっている。この裂け目の長さはわからない。両端が楕円の窓から見切れており、首を左右に振っても、側方は闇に閉ざされて見えないのだ。


 ちょうど、海底の1箇所だけに舞台の上のような照明が当たっている状態だ。光源がなんなのかは、確認のしようがない。ただその柔らかい、青白いあかりは、目の前を走る大きな亀裂の全体をほんのりと闇に浮かび上がらせている。


 僕はようやくこの風景に慣れた。

 そして僕をここに連れてきた戦友のほうへ振り向き、ふたたび発話した。

「ナニカ ミツケタノカ」


 よく考えてみれば、おかしな話だ。さっきまでは全ての発音が清浄缶を経由しないといけないはずだったのに、いま僕は、水中であたりまえに意思疎通をはかっている。

 野崎は答えた。

「オレハ ココマデダ」


 なんだって? 僕は、今度は発話せずに首を傾げ、全身の動作で問うた。

 お前は、ここまで。なら俺は、一体、どこまでなんだ?

 野崎はしばらくだまり、そして再び伝えてきた。

「アトハ マカセル」


 そして大きく水を蹴り、後ろへ下がっていってしまった。目にもとまらぬ速さだった。

 ここまで連れてきた戦友が姿を消し、僕は、海底にひとりぼっちで取り残された。闇の中で、ただ水草のようにゆらゆらと揺れているだけだ。


 眼前には、雄大な大地の亀裂が走っている。その内部は真っ暗で、なにもうかがい知ることができない。野崎は、任せると言い捨てて何処かへ消えた。すると、亀裂の内部を覗くのは、僕の仕事ということになる。亀裂の間に落ち込むあの深淵を探るのは、他でもない、この僕ということになる。


 まだだ。

 僕はまだ、まるで心の準備ができていない。

 あの深淵を覗き、あの深淵に降りていくには、まだ早すぎるのだ。

 だめだ、僕にはできない。




 すると目の前の亀裂が、なにかを言いたそうに細かく震え出した。

 崖の上から、白砂が、小石が、そして大きな岩が次々と崩落を始め、闇の中に落下していった。崖は上下左右に激しく震え、僕のいるなだらかな砂の上にもこまかな皺がいくつも寄ってきた。


 いまや、僕は激しい海底地震のただ中にいた。このまますべてが崩れ、闇に閉ざされてしまうように思えた。


 やがて、亀裂の内部から、これまでの柔らかな光とは比べ物にならない、あかあかとした明度の高い光が漏れ出してきた。あきらかに現在の震動の原因である。周囲の海底は泡立ち、次々と崩落し、そして遂に、光が亀裂の上端に達して、次々と溢れ出てきた。


 それは、ひとつの丸い光球だった。灼熱の、そして禍々しい放射能を帯びた原子分裂の所産だった。僕にはそれがわかった。爆心地で消滅し、御影石みかげいしにただ黒い影となって刻まれてしまった僕の家族のように、いま僕はあの灼熱に炙られて、背中に背負った酸素や苛性ソーダの粒と混じり合って瞬時に溶解してしまうのだ。いや、溶解どころではない。すべてと一緒になって、原子分解されてしまうのだ。


 光球はますます大きくなり、いまやその半分以上が亀裂の上に出て、あたりに広がり始めた。目の前の白砂が赤く輝き出した。


 いよいよ終わりだ。

 やがて僕は僕でなくなり、あの光の一部となるのだ。そして光が滅したあとの闇となるのだ。そのまま深淵に沈み、物言わぬ永遠の沈黙の一部となるのだ。


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