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第9話

 僕は、静かに目を覚ました。


 あの奇妙な海底の原子爆発に巻き込まれたあたりから、これが夢であることには半分気づいていた。だが、あまりにも生々しいあの夢は、夢であると僕が確信して、そのまま現実にたち戻ろうとすることを意識の底から拒否し、その獰猛どうもう鉤爪かぎづめで強引に引き戻した。やむなく僕はふたたび眠りの底に落ち、遂にあの爆発に巻き込まれてしまったのだ。


 この強いられた潜在意識下での被曝のあと、周囲になにもなくなり、ただ真っ暗な中をゆらゆらとたゆたっているうちに、僕は自然に目を覚ましたのだ。

 だから、汗は全くかいていなかったし、特に声を上げたりもしていなかった。


 周囲では、昼間の作業に疲れた復員兵たちの寝息が聞こえていた。

 人数は多かったが、雑魚寝する講堂が広かったので相互に適切な距離があり、寝苦しさはなかった。涼しい夜風が通り、鈴虫の鳴き声までが聞こえてくる。


 不思議な夢だった。

 僕はまた伏龍となり、噂に聞いていた海底の亀裂を目の前で見た。そして、部隊解散のときに別れたきりの野崎がいきなり出てきた。そして、原子爆発が海底で起こった。


 これまで、自分の身のまわりにあったさまざまなことが、全部一緒くたになって押し寄せてきた。そして野崎は、僕を亀裂の前に押し出した。

 亀裂の中を確かめるのは、僕の仕事だ、と。


 大咲島に来てからこのかた、僕は別にあの浮標群に取り巻かれた海面に関心を持ったことはない。その中に潜りたいと思ったことも。自分なら、潜って中にあるものを確かめることはできるかも知れぬとは考えた。さまざまな噂が本当なのか嘘なのかを。だが、特に自分からそうしたいと考えたわけではない。


 この島に来たのは、単に食いつなぐためだ。そしてまたふらふらと焼け跡を彷徨うためだ。来れば生きる目的が見つかるなんて、期待してもいなかった。


 僕は、ただ、大勢の中の一人としてこの島に来て、適当に仕事をして、出されるライスカレーを食って、給金をもらってまた本土に戻るだけの存在だ。だが、海底の野崎はそうさせてはくれないらしい。

 僕になにか、特別な役割を割り振っているらしい。


 目を覚ました僕は、そんなことを、高い天井を眺めながらとりとめもなく考えた。いくら考えても、ただ同じところを堂々巡りするだけだ。そして無為に時間だけが経過していく。


 男たちは寝静まっている。数名、軽くいびきをかいている者もいるが、多くは静かにただ寝息を立てているだけだ。

 建屋の外を、風がさあっと吹き抜けていく音が聞こえる。


 僕は、ふと、外に出てみようという気を起こした。

 涼しそうな夜風に誘われたこともあるが、夕暮れ時に出会った、あの不思議な老人が、まだあの場所にいるのではないかと思ったからだ。僕は彼の姿を見失ってしまったが、あれは、彼がその場から消えてしまったのではなくて、暗くなり僕が単に見間違っただけなのだと納得したかったのだ。


 僕はそっと立ち上がり、周りで転がっている仲間の腕や足を踏まないように気をつけながら、薄暗がりの間をって外に出た。


 ぽつんと半月が出て、中途半端に下界を照らしている。静かな海にさざ波がたち、白く千切れてきらきらと輝いている。


 陸地には、荒涼とした風景が広がっている。

 すでに動きを止めた巨大なガントリー・クレーンの影。にょきにょきと突き立つ煙突。方向もばらばらに雑然と立ち並ぶ不整合な建物たち。黒い闇に沈む僕らの仕事場。


 いろいろなものがあったが、そのすべてに人気ひとけがなかった。それは、すでに死んだ街だった。さっきは野崎以外に誰もいない海底にいたが、目が覚めても僕は、似たような無人の廃墟のなかにいる。いま広がっている風景は、もしかしたら自分の心の奥底にある空虚が、かたちを変えて目の前に現れているだけなのではないかと思えた。


 とつじょ、尖塔のほうからぼーんと鍵盤けんばんを叩くような耳ざわりな音が聞こえてきた。

 僕はビクっとして歩を止めたが、よく考えれば前にもその音を聞いたことがあった。


 まだ動いているあの時計(ちなみに、作業時に確認したところ時刻は二十分以上もずれていた)が、定期的に鳴らす音だ。今、ちょうど午前零時(あの時計では)なので、機械仕掛けで自動的に鳴ったのだろう。


 だがそれは、死んでいた街全体がふたたび息を吹き返し、夜のあいだにのそりとその活動を始めようとしているように思えた。


 すると、僕の視界のはじに、僅かに動くものが見えた。

 あの老人ではない。なにか、もっと別のものだ。

 海側に伸びたあの白いコンクリートの一帯から、島中央部の建物の塊へ、なにか黒い人影のようなものがすっと入り込んでいくのが見えたのだ。


 そう、それは人影だった。少なくとも、人のようなものの影だった。


 僕は、動く指標を見て識別する能力、いわゆる動体の視力にたいへん優れていると評価されていた。海底に潜る前は、もともと予科練(海軍飛行予科練習生)として、飛行機乗りになる予定だったのだ。


 特に戦闘機を操縦し敵と渡り合う場合、遠視能力が優れていることはいち早く敵を発見するのに重要だったが、次にそれが敵か味方か、そして機種はなにか、状態はどうかなどを瞬時に見極めないといけない。


 お互いが時速500キロメートルずつの高速で遭遇し、しかも上下左右斜めなど空中を激しく三次元機動するわけなので、相手を視認できるのは、本当に、ほんの一瞬なのだ。


 その一瞬で、次なる戦闘、殺し合いに勝ち残るために必要なすべての情報を把握しなければならない。敵の機種、機動性、搭載している火器、敵操縦士の腕前。動体を見極める視力は、だから、戦闘機乗りになるためにはたいへんに重要なものだった。


 いま僕は、鍛えに鍛えたその能力で、遠方の暗がりにチラと見えただけのものを、かなり細かな部分まで見極めた。意識していないと、その視覚情報はすぐに頭の中から抜けていってしまう。そこで、これも訓練時の習慣だったのだが、僕は見たもの、それを構成する要素を言葉にして、実際に口に出し、自分の記憶に焼き付けた。


「背の高い、細長い身体の人間/または人間に似たなにか/顔色は青白い/うつむきながら小走りに移動、ただしほとんど上下動はしていない/身体に厚みが感じられず、全体に薄く平べったい印象あり/移動スピードは速くない/西洋の修道服のようなものをすぽりとかぶっている/前後左右を気にし、なにかに怯えている素振り/こちらの存在には気づいていない」


 ちょっと、待て。

 僕は思った。やつは建物群のほうに向かい、そのあいだの闇に姿を消した。それはいい。だが一体、やつはどこからやってきた・・・・・・・・・・・のだ?


 そのまま左のほうへ目を移す。そこにあるのは、例の長大な岸壁だ。そこに着けている船は、いまは一隻もない。


 すると、今のやつは、海から上がってきたのか。

 僕は気づいた。そうか、全身濡れねずみになっているから、あの長いタオルのようなものを身にまとっているのだ。


 僕はその場でしばらく動きを止めていたのだが、あちらに悟られないよう、静かに前進を再開した。まっすぐ歩き、さっき誰かが移動していった場所の前までやってきた。


 白いコンクリートの床に、一筋の黒いしみがずっと続いていた。やはり、見間違いではない。なにかがここを、海から建物まで、ずっと横切っていったのだ。


 不思議なことに、足跡ではない。ひとつひとつ途切れてはおらず、太いものや細いもの、数条の直線が、ときにやや掠れたり消えたりしながら続いている。

 なにかを、引き摺って歩いたような痕跡だ。


 やつは、本土からおそらく小舟で乗りつけ、岩壁から上がり、おそらくはなにかを引きずりながらここを横切ったのだ。

 人目につかないよう、こんな夜更けに。

 この島には、僕のまだよく知らない秘密がありそうだった。


 もしかしたら、先ほど見た夢は、この状況をあらかじめ僕に知らせるための予知夢のようなものだったのかもしれない。野崎は夢の中で舞い戻り、海底の亀裂になぞらえて、この島で進行しているひそやかな出来事を覗くよう僕の背を押そうとしたのかもしれない。


 覗いて、その先、僕はどうするべきなのだろう? その答えまではわからない。

 だがとりあえず、あとほんの一歩だけ前に進んで、なにが起こっているのかを探ってみるべきだ。そうすれば、もしかすると、空っぽの僕が、この先もやっていける何かを、確かな手応えとともに見つけることができるかもしれない。

 僕は、さっきの不思議な夢以外には特になんの根拠もなく、そう考えた。


 僕は、さらに進んだ。そしてすぐに戦慄せんりつを覚えた。

 背中から脳天まで、電気のようなしびれが走った。どうもそのあたりに、さっきの老人がいるような気がしたのである。


 結果から言うと、老人はいなかった。

 だがその代わりに、なにと名状しがたい、恐ろしいものの姿を見た。


 手前の倉庫の壁にめ込まれていた硝子が割れ、一部に穴が空いていた。その奥はただ大きながらんどうの闇になっていたのだが、そこからふっと、あるなんらかの物体がうごめいているのが見えたのだ。


 それは生き物であった。明らかに何かの有機物で、機械仕掛けではない自然の内発的な力で不規則な律動をする生物であった。それは震えるように、身悶えするように、倉庫の暗がりの中で自らの灰色の身体を捻り、よじり、反転し、そして全くベつのものに変化したかのように色を変えた。


 僕はその場で凍りついたようになっていた。動こうにも、動けないのだ。


 もっとしっかり落ち着いていたら、得意の動体識別力でもう少し注意深くこの物体の形状や動きを分析し、精緻せいちに再現してここに書くことができるだろう。だが僕はすっかり茫然自失していたし、眼前で起こっていることがあまりにも現実離れしていて突飛だったから、もうこれ以上なにを記すこともできないのだ。


 物体は、そうやってしばらく蠢いていたが、やがて移動したのか、割れ窓の隙間からそのおぞましい姿を消した。だが、蛇や蜥蜴とかげが地を這うようなずりずりとした微かな音は、そのあともしばらく続いた。


 あのとき。

 海の底に沈む栄進丸の残骸のなかで見かけた、あのいびつな黒い影のような生物。


 いま見たものが、あれと同じ生物なのかどうか、僕にはわからない。


 以前は暗い海の底に横たわる、沈船の暗がりの中だった。今は地上倉庫の闇の中で、硝子に空いた小さな穴ごしに見かけただけなのだ。


 だが両者は、絶対に同種のものだ。あるいは同質のものだ。生物だが人間ではない。人間のまだ知らない特異な、そして、おぞましい何かだ。


 この島は、あの海底での怪異と、どこかでつながっている。

 僕は最初、一般民間人の立ち入ることのできないこの廃墟の島を利用して、なんらかの非合法組織に属する連中がなにか禁制品の闇取引でも行っているのかと考えていた。


 だが事態はそれどころではない。この島にはなにか、人智のレベルを超えた、とんでもない秘密が隠されている。

 おそらくは人間が目にしてはいけない類の、とんでもないなにかだ。


 今はいないが、僕はあの老人と野崎が、にやにやと笑いながら闇のどこかで僕の姿を眺めているような気がした。

 僕の潜在意識の中に棲みついている彼らはきっと、僕を試しているのだ。この僕が、心を無くしたこのうつろな男が、はたしてこの恐怖に対しどう対処するのかを。


 僕にはわかった。いまの恐ろしい光景が、夢であろうと現実であろうともはや関係ない。


 僕は、立ち向かわければならないのだ。

 いつかそこへ行き、面と向かって正視しなければならない。

 すべての謎が発するあの場所……海底の亀裂、禁域の底。


 あの深淵の姿をだ。


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