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第10話

 翌朝は明け方から雨が降ってきた。さほど激しくはない雨だったので、8時から予定通り作業が始まった。期限の決まっている仕事だったが、前日までが順調だったので、監督役もあまり口うるさくはなく、作業場全体にどこか余裕があった。


 僕のところには、ひとつもっこがまわってきた。前日、それで作業にあたっていた先行者の誰かが、なにか他のことをやりたいと思うようになったらしい。


 大きめの瓦礫を吊り、僕は竿の前を担ぐ。後ろにまわった太田という男が、よっこらしょ、と掛け声をかけて両手で竿の後端を持ち上げた。そのまま、まだあちこち転がっているコンクリートの塊や、ささくれ立った柱の一部や水道管などを避けつつ進む。まだ土は湿る程度で泥濘にはなっていなかったから、足元が滑る心配はなかった。1時間のうちに、僕らは作業場から6個の大きな瓦礫を持ち出した。


 太田は口数が多く、話好きの男である。年齢は30歳代で、何度も再招集され北支ほくし戦線にずっと縛り付けられていた古兵だ。北海道に家族がいるが、もう何年も会っていないという。なぜ帰らないのか聞いたが、彼は曖昧に笑うだけだった。


 この大咲島のことについても知っていた。

 なんでも戦争初期にフィリッピンを占領した際、大量の米比軍捕虜を捕らえたが、そのうち米兵だけを台湾に移送した。その中から数十名だけが選び出され、海軍の手によってこの島に連れてこられ、施設の一角に監禁されていたのだそうだ。


 遠く北支那きたしなにいた太田が、なぜそのようなことを知っているのかは不明だ。おそらくこの現場に来てから、別の誰かから聞きつけた与太なのであろう。


 太田いわく、その人選はとても妙だったそうだ。連れてこられたのは、主に下士官兵や民間人。もっと重要な情報を持っているはずの司令官級や高級将校らは、そのまま台湾にとどめ置かれた。


「だから、別にそれは戦争遂行のための尋問なんかじゃない。もっとなにか、ぜんぜん別の目的だったんだよ。連れてこられた奴らは、とっても恐ろしい人体実験に使われていたそうだ」


 太田は眉をひそめて言った。なんでもずっとその手の実験を重ねていた専門家たちが、関東軍から分派されていたそうだ。もう海軍も陸軍も関東軍もない指揮系統の混乱ぶりだが、無責任な噂というのは、おおかた、そういうものなのであろう。


 いずれにせよ、入院ないし監禁されていた人々は、もうここにはいない。終戦後のどさくさ紛れによそへ移されたか、あるいは建物とともに粉々に吹っ飛ばされたかだ。僕は、思わず自分の軍靴の底をひっくり返し、つけていた軍手をあちこち眺めた。よもや、そこに人の血や肉片がこびりついていやしないかと思ったのである。もちろん気のせいだった。




 太田は、さらに奇妙なことを教えてくれた。こちらは、より生々しい内容だ。


 二日前の作業で、働いていた労務員のひとりが死んでしまった。

 まだ若く、壮健そうだった。もっとも、原爆の後遺症などで突然死んでしまう人は少なくない。彼も、原爆に起因するなんらかの疾患を抱えていたのかもしれない。


 しかし、その死に方は少々異様だった。

 彼は、作業を放り出してふらふらと立ち上がった。海のほうを見つめ、ぶつぶつとなにか呟いていた。まわりの作業員たちは、気味悪がって彼を遠巻きにする。


 だんだんと声が大きくなり、やがて意味のわからぬ言葉で、支離滅裂な詠唱が始まった。彼の眼はらんらんと輝き、満面の笑顔だったという。

 そのまま作業場を出て行こうとした。監督や他の作業者たちが止めたが、彼はまったく言うことを聞かない。羽交締めにしようとした数名をおそろしい力で投げとばし、ゆっくりと岸壁のほうへ向かった。


 ちょうど、僕がきのう正体不明の老人と出会ったあたりだ。そういえば、老人も釣りをしながら、ぶつぶつと意味のわからない呪文を唱え続けていた。

 そして彼は、船をつなぐために置かれている重くて頑丈な麻綱を手につかむと、それを隣の繋船柱までずるずると引っ張り、端っこを自分の首に巻きつけた。

 そのまま万歳をするように岸壁から飛び降りた。


 繋船柱ふたつ分をまたいだ首吊りだ。

 皆がかけつけると、彼の身体は波の上でぶらぶらと左右に揺れていた。すぐに引き上げたが、落下の衝撃で首が折れ、さらに強く頭部を打っていて、ほぼ即死の状態だった。


 一瞬とはいえ、かなりの苦痛だったはずだ。それでも彼はまだ満面の笑顔を保っていた。

 太田も、彼を引き上げたうちの一人だ。その笑顔を間近に見た。


 もちろん、衆人環視しゅうじんかんしの中の出来事だ。事件性はない。だから特に通報もされなかったし、おそらくは単なる自殺として、後から本土の警察に届出が行くだけだろう。


 数分後には、当たり前のように作業が再開された。あのひどい戦争の直後だ。誰もが人の死には慣れっこだった。ここは検疫施設だったから、当然、強力な焼却炉もある。死体はすぐに運び出され、そのまま皆の意識から消えた。


 だが、太田の記憶には残り続けた。

「俺はあいつの名前すら知らない。覚えているのは顔だけだ。でもとにかく、なにかから解放されたような、一点の曇りもない無邪気な笑顔だったよ。まるで赤子の笑みのような……そんな笑顔、俺も長らく見た記憶がない」


 赤子というところで太田は一瞬だけ口ごもった。が、なるべく早く忘れようとしているように、大きく頭を振った。




 この島に来てから、おかしなことばかりが起こる。だが僕が来る前から、太田が教えてくれたような、異様な噂や事件があったのだ。


 作業の合間の小休止で、僕は昨夜見たもののことをゆっくりと思い返した。

 まずは、遠目に見かけた人のようなものの影だ。なにか大きな頭巾のようなものを頭からすっぽりと被り、その頭巾がそのまま全身を覆っているように見えた。顔も見たが、青じろくのっぺりとした印象だけで、細かなことはわからない。彼は(あるいは彼女は)、なんだかひどく怯えたように周囲を気にし、なにかを引き摺るような独特の気持ちの悪い動作で移動した。どこから来たのかは、わからない。建物群のあいだの暗がりに姿を消したが、その後、どこに行ったのかもわからない。


 次に、倉庫の中に見えた、もっとわからないものの影だ。こちらは、距離はうんと近かった。しかし硝子に開いた穴越しで、中は暗がりだった。すぐそこなのだが、なんだか顕微鏡で微生物を覗いているかのような遠い距離感があった。それはまるで微生物そのもののようにせわしなく動き、細かく形態を変えたが、結局のところ、全体はぼうとした印象だけである。


 なにかわからぬものを二つ、見た。もちろんその前に、僕は海底でなんとも形容のし難い影のような生きものを目撃したことがある。三者の間には共通点があるようで、無い。別のものと言われれば別のものだ。すべて目撃状況や条件が違うため、いくら優れた視力を持つ僕といえども、判定は困難だった。


 闇夜や薄暮はくぼの攻撃で、爆撃機や攻撃機が小さな水柱が立ったのを見て敵艦撃沈と勘違いしてしまう事象はよく知られていたが、百戦錬磨のパイロットがそうした錯誤に陥るのも当然だと僕は思った。対象全体が明らかでないと、どんなに部分だけを仔細に観察してみても、全くなにもわからないのだ。


 僕は、ふうと大きくため息をついた。ついでにあくびが出る。

 そうだ、確かに僕は寝不足だ。あんな訳のわからない体験をすれば、誰でもそうなるだろう。それに、寝る前に見かけたあの謎の釣人のことも気にかかる。


 ここは、ひどく変な島だった。


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