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第11話

 離れたところに座っていた太田が、身をよじり、尻をずりずり動かして近づいてきた。

「眠いかい? 昨夜は何度かションベンに立っていたみたいだからね」

「あんたも起きてたのかい? みんな寝静まっていたようだったけれど」

「ああ、まあな。俺は慣れてるんだ。毎晩のように夢を見るもんでな」

「へえ、郷里の家族の夢かい?」

 僕がなんの気なしに言うと、太田は少しさみそうに笑って、いいや、と言った。

「もっと悪い夢だ」

 この多弁な男が毎夜毎夜うなされる悪い夢。僕がときに見る海底の夢とどう違うのだろう。少し興味をかれて、傾聴する気があるのを身振りで示した。

 太田は、軽くため息をついた。逡巡する素振りをしたが、結局、語る誘惑にはあらがえない。この男は、そうしないでいられないたちなのだ。

「俺が北支にいたことは言ったよな?」

 僕がうなずくと、

「戦線はずっと南に動いていたんで、そこは後方地帯だった。すでに俺たちの領域で、敵はいない。安全な地域のはずだったんだ。ところが、そうじゃない」

 ぶるりと震えるような仕草で身をすくめた。さらに言った。

「平和なのは、昼のあいだだけだ。夜になると、国民党の残党や、あの恐ろしい八路軍パーロ(共産党軍)が湧いてくる。そして俺たちを襲ってくるんだ」

「ゲリラかい?」

「ああ、そうだ。奴らはなぜか俺たちの動きを逐一把握していてな。非番のあいだや、一人きりになったときを襲ってくる。仲間がそれで何人もやられた」

「卑怯だね」

「まったくだ。正面から戦う気がないんだよ。それが奴らのやり方なんだ」

「現地住民に協力者がいたんだね」

「それはもう、絶対にそうだ。奴らは、日頃は笑顔で俺たちに接してくるが、腹の底では別のことを考えてる。笑いながら、へいこらしながら、こちらの弱みを常に探してる。俺たちも、それはわかってた」

「どう対策したの?」

「初めは融和を考えた。なんといっても、ここは奴らの国だ。こちらがお行儀よく、強圧的なことをしなければ、相手だって強くは出ない。そう考える平和的な部隊長や憲兵さんがいてな。まあ、実際それでかなりうまく行った時もあった。だが所詮は敵同士さ。いつまでもは無理だ。そこで方針が変わった。徹底的な掃討だ」

「自分たちが駐留してる街なのに?」

「いや。ゲリラは実は街にはいないんだ。周辺の小さな村々にかくまわれていて、夜になると街にやってくる。だから、俺たちもスパイを放って情報を集め、敵性の強い村を順番に帳簿に載せていた」

「なるほど」

「そして、たまに懲罰ちょうばつを加えに行く。られたぶんだけ倍返しして、相手を脅すんだ。舐められないためには、そうしておかないとな」

「殺った相手は村人だね。もし関わりがないんだとしたら、とんだ迷惑だ」

「関わりないなんてことがあるか。そこに住む以上、見て見ぬふりくらいはしているし、まず絶対になにか手伝っている。だが、その頃にはまだ俺たちも自制はしていた。そういう行動は、あくまで敵に与える警告のようなものだった」

「まあ、そうだろうね。戦争だから」

「そうだ。戦争だからな。治安戦に正規兵と民間人の違いなんて意味をなさない。だから、やるときはやる。引くときは引く。この呼吸が大事なんだ。だが、それまでの部隊長が内地に転任したあとやってきた若造の隊長は、経験がない代わり血気だけは盛んな奴で、こうした現地の事情をまったく理解していなかった」

「そいつが、徹底的な掃討を命令したんだね」

「そういうことだ。上位者からいざ命令が下ったとなれば、なんであろうと遵守するのがわが皇軍の伝統だ。もっとも、俺たちの兵力にも限りがあったから、すべての敵性勢力を潰すわけにはいかない。ある一村だけを狙い、中隊の全兵力で取り囲んだ。文字通り、鼠一匹逃げられないようにしてな」

「そして?」

「そのまま突撃した。景気良く援護の軽機(機関銃)を鳴らしたりしてな。備蓄していた手榴弾を、遠慮なく何発も民家に叩き込んだ。目につく村人を次々と撃ち殺し、刺し殺した。将校は軍刀を振るって奴らの首をねた。刀はなまくら・・・・、腕はへっぽこだから、綺麗に首なんて飛ばない。途中で止まって、斬られた奴はそこでのたうちまわって苦しんだ」

「そいつは、ひどいな」

「まあ、経験不足の若造が下した馬鹿な命令とはいえ、日頃の鬱憤を晴らす機会だ。俺たちみんな、どこかイカれてた。まるで血に飢えた獣のように、ゲリラを、村人を、殺して殺して、殺しまわった」

「全村、殺っちまったのかい?」

「そういう命令だったんだが、一人だけ例外がいた。ある家を覗き込むと、ぶるぶると震えた年寄りが、赤子を抱えてなにか念仏のようなものを唱えている。向こうの言葉だから、それが念仏なのかどうかもわからない。俺は、老婆と赤子を一緒に突き殺そうと、着剣した小銃を構えた。すると、それまで寝ているようだった赤子が、とつぜん泣き出したんだ」

「泣き出した……」

「そうだ。老婆は赤子を差し上げるような格好をして、まだぶつぶつと念仏を唱えながら命乞いをしてる。赤子は泣きわめく。そのさまをみて、俺もハッとした。それで気が変わった」

「助けてやったのかい?」

「ああ。俺は婆さんの手から赤子をひったくり、そのまま、脇にあった大きな壺の中に放り込んだ。俺の仲間が見つけないよう、なにかで蓋をした。そして次の家に行った」

「それじゃ、助かったかどうかわからないね」

「それが、そのとき俺のできたことのすべてだ。婆さんは、たぶん俺の後から家を覗いた味方に殺されちまっただろう。赤子だって……そうだな、見つかったかもしれないし、そのまま中で窒息しちまったかもしれない。あるいは、村中についた火に巻かれて丸焼けになっちまったかも。あとのことは、わからないよ」

「まあ、やむを得ない。あんたは、きっと善行をしたんだよ」

「ならいいけどな。だがそのあと、郷里から手紙が来た。写真が入ってたよ。身重だった女房が無事に出産したんだ。そしてそこに写ってたのは、あんときの赤子にそっくりな、この俺の子供だったよ」

「そうだったんだ……」

「ああ。お察しの通り、何年の前の話さ。俺の子は、もうずいぶんと大きくなったはずだ。だが俺は帰る気になれなかった。何度か除隊する機会はあったが、俺は強い希望を出して大陸に居残り続けたんだ。そして戦争が終わって宇品に戻り、ここでこうして、まだ郷里には戻れぬままだ」

「でもあんたは、むしろ赤ん坊を助けてやったわけだろ? だから、本来は胸を張って自分の子供に会えるはずだ」

「いや、そんなことはないさ。俺はきっとこれから、我が子の笑顔を見るたびに、あの夜のことを思い出してしまうんだ。自分が鬼になり、獣になり、魔物と化して同じ人間を殺し回った夜のことをな。俺はきっと、それが怖いんだ」

「そうか……でも」

 僕がなにか言おうとした瞬間、空からポーンと打鍵音がした。

 例の時計台が、正午の時報を打ったのだ。それで、次の言葉を言いそびれた。なに、大したことを言うつもりじゃなかった。この精神の地獄を抱えた敗残兵に、なにか適当な、当たり障りのない慰めの言葉を投げるはずだったのだ。だが頃よく邪魔されたので、その会話は、それきりになった。

 例の時計は多少狂っているのだが、現場はその時報に従い動いていた。作業場のあちこちに散った連中が、のっそりと作業を止め、1箇所に集まってくる。賄いの握り飯が並んでいる。横には小さな汁椀が付いている。すいとんかもしれない。

 僕と太田もそちらへ行きかけたが、遠くで作業監督が僕を指差して、おいでおいでをしているのが目に入った。僕はちらと太田を見てうなずき、そのまま違う方向へ向かう。

 監督は命じた。

「岸壁に行け。新しい連中が来る。そいつらをここまで連れて来い。あと、この受取書類に署名をもらえ。忘れるなよ」

 そう言って、木の板に挟み込まれた粗末なガリバン刷りの書類を押し付け、自分はそそくさと飯のほうへ行ってしまった。

 僕の飯はどうなるんだろうと思ったが、それほど空腹な訳でもないし、言われるがまま岸壁に向かった。すると、沖合に早くも、例の機帆船がこちらへ向かっているのが見えた。今日は半分だけ帆を上げている。

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