離れたところに座っていた太田が、身を
「眠いかい? 昨夜は何度かションベンに立っていたみたいだからね」
「あんたも起きてたのかい? みんな寝静まっていたようだったけれど」
「ああ、まあな。俺は慣れてるんだ。毎晩のように夢を見るもんでな」
「へえ、郷里の家族の夢かい?」
僕がなんの気なしに言うと、太田は少しさみそうに笑って、いいや、と言った。
「もっと悪い夢だ」
この多弁な男が毎夜毎夜うなされる悪い夢。僕がときに見る海底の夢とどう違うのだろう。少し興味を
太田は、軽くため息をついた。逡巡する素振りをしたが、結局、語る誘惑には
「俺が北支にいたことは言ったよな?」
僕がうなずくと、
「戦線はずっと南に動いていたんで、そこは後方地帯だった。すでに俺たちの領域で、敵はいない。安全な地域のはずだったんだ。ところが、そうじゃない」
ぶるりと震えるような仕草で身をすくめた。さらに言った。
「平和なのは、昼のあいだだけだ。夜になると、国民党の残党や、あの恐ろしい
「ゲリラかい?」
「ああ、そうだ。奴らはなぜか俺たちの動きを逐一把握していてな。非番のあいだや、一人きりになったときを襲ってくる。仲間がそれで何人もやられた」
「卑怯だね」
「まったくだ。正面から戦う気がないんだよ。それが奴らのやり方なんだ」
「現地住民に協力者がいたんだね」
「それはもう、絶対にそうだ。奴らは、日頃は笑顔で俺たちに接してくるが、腹の底では別のことを考えてる。笑いながら、へいこらしながら、こちらの弱みを常に探してる。俺たちも、それはわかってた」
「どう対策したの?」
「初めは融和を考えた。なんといっても、ここは奴らの国だ。こちらがお行儀よく、強圧的なことをしなければ、相手だって強くは出ない。そう考える平和的な部隊長や憲兵さんがいてな。まあ、実際それでかなりうまく行った時もあった。だが所詮は敵同士さ。いつまでもは無理だ。そこで方針が変わった。徹底的な掃討だ」
「自分たちが駐留してる街なのに?」
「いや。ゲリラは実は街にはいないんだ。周辺の小さな村々にかくまわれていて、夜になると街にやってくる。だから、俺たちもスパイを放って情報を集め、敵性の強い村を順番に帳簿に載せていた」
「なるほど」
「そして、たまに
「殺った相手は村人だね。もし関わりがないんだとしたら、とんだ迷惑だ」
「関わりないなんてことがあるか。そこに住む以上、見て見ぬふりくらいはしているし、まず絶対になにか手伝っている。だが、その頃にはまだ俺たちも自制はしていた。そういう行動は、あくまで敵に与える警告のようなものだった」
「まあ、そうだろうね。戦争だから」
「そうだ。戦争だからな。治安戦に正規兵と民間人の違いなんて意味をなさない。だから、やるときはやる。引くときは引く。この呼吸が大事なんだ。だが、それまでの部隊長が内地に転任したあとやってきた若造の隊長は、経験がない代わり血気だけは盛んな奴で、こうした現地の事情をまったく理解していなかった」
「そいつが、徹底的な掃討を命令したんだね」
「そういうことだ。上位者からいざ命令が下ったとなれば、なんであろうと遵守するのがわが皇軍の伝統だ。もっとも、俺たちの兵力にも限りがあったから、すべての敵性勢力を潰すわけにはいかない。ある一村だけを狙い、中隊の全兵力で取り囲んだ。文字通り、鼠一匹逃げられないようにしてな」
「そして?」
「そのまま突撃した。景気良く援護の軽機(機関銃)を鳴らしたりしてな。備蓄していた手榴弾を、遠慮なく何発も民家に叩き込んだ。目につく村人を次々と撃ち殺し、刺し殺した。将校は軍刀を振るって奴らの首を
「そいつは、ひどいな」
「まあ、経験不足の若造が下した馬鹿な命令とはいえ、日頃の鬱憤を晴らす機会だ。俺たちみんな、どこかイカれてた。まるで血に飢えた獣のように、ゲリラを、村人を、殺して殺して、殺しまわった」
「全村、殺っちまったのかい?」
「そういう命令だったんだが、一人だけ例外がいた。ある家を覗き込むと、ぶるぶると震えた年寄りが、赤子を抱えてなにか念仏のようなものを唱えている。向こうの言葉だから、それが念仏なのかどうかもわからない。俺は、老婆と赤子を一緒に突き殺そうと、着剣した小銃を構えた。すると、それまで寝ているようだった赤子が、とつぜん泣き出したんだ」
「泣き出した……」
「そうだ。老婆は赤子を差し上げるような格好をして、まだぶつぶつと念仏を唱えながら命乞いをしてる。赤子は泣き
「助けてやったのかい?」
「ああ。俺は婆さんの手から赤子をひったくり、そのまま、脇にあった大きな壺の中に放り込んだ。俺の仲間が見つけないよう、なにかで蓋をした。そして次の家に行った」
「それじゃ、助かったかどうかわからないね」
「それが、そのとき俺のできたことのすべてだ。婆さんは、たぶん俺の後から家を覗いた味方に殺されちまっただろう。赤子だって……そうだな、見つかったかもしれないし、そのまま中で窒息しちまったかもしれない。あるいは、村中についた火に巻かれて丸焼けになっちまったかも。あとのことは、わからないよ」
「まあ、やむを得ない。あんたは、きっと善行をしたんだよ」
「ならいいけどな。だがそのあと、郷里から手紙が来た。写真が入ってたよ。身重だった女房が無事に出産したんだ。そしてそこに写ってたのは、あんときの赤子にそっくりな、この俺の子供だったよ」
「そうだったんだ……」
「ああ。お察しの通り、何年の前の話さ。俺の子は、もうずいぶんと大きくなったはずだ。だが俺は帰る気になれなかった。何度か除隊する機会はあったが、俺は強い希望を出して大陸に居残り続けたんだ。そして戦争が終わって宇品に戻り、ここでこうして、まだ郷里には戻れぬままだ」
「でもあんたは、むしろ赤ん坊を助けてやったわけだろ? だから、本来は胸を張って自分の子供に会えるはずだ」
「いや、そんなことはないさ。俺はきっとこれから、我が子の笑顔を見るたびに、あの夜のことを思い出してしまうんだ。自分が鬼になり、獣になり、魔物と化して同じ人間を殺し回った夜のことをな。俺はきっと、それが怖いんだ」
「そうか……でも」
僕がなにか言おうとした瞬間、空からポーンと打鍵音がした。
例の時計台が、正午の時報を打ったのだ。それで、次の言葉を言いそびれた。なに、大したことを言うつもりじゃなかった。この精神の地獄を抱えた敗残兵に、なにか適当な、当たり障りのない慰めの言葉を投げるはずだったのだ。だが頃よく邪魔されたので、その会話は、それきりになった。
例の時計は多少狂っているのだが、現場はその時報に従い動いていた。作業場のあちこちに散った連中が、のっそりと作業を止め、1箇所に集まってくる。賄いの握り飯が並んでいる。横には小さな汁椀が付いている。すいとんかもしれない。
僕と太田もそちらへ行きかけたが、遠くで作業監督が僕を指差して、おいでおいでをしているのが目に入った。僕はちらと太田を見てうなずき、そのまま違う方向へ向かう。
監督は命じた。
「岸壁に行け。新しい連中が来る。そいつらをここまで連れて来い。あと、この受取書類に署名をもらえ。忘れるなよ」
そう言って、木の板に挟み込まれた粗末なガリバン刷りの書類を押し付け、自分はそそくさと飯のほうへ行ってしまった。
僕の飯はどうなるんだろうと思ったが、それほど空腹な訳でもないし、言われるがまま岸壁に向かった。すると、沖合に早くも、例の機帆船がこちらへ向かっているのが見えた。今日は半分だけ帆を上げている。