ここで、僕はいったん話を打ち切った。岸壁まで新参者を迎えにいった分、長めに休みをとっていたが、野崎とつい話し込んでしまい、遠方からちらちらと険しい視線が向けられるのに気づいたからだ。
僕は大慌てで野崎の背を叩き、作業場へと向かった。
ちょうど岸壁の向こうには、野崎を連れてきた機帆船と入れ替わりに、見慣れない風態の大船がやってきていた。
「あれは、
なにごとにも詳しい野崎が、振り返って言った。
浚渫船の前甲板あたりには、複雑な形状の櫓のような骨組が組まれ、多数の丸い入れ物を連ねたベルト状の長細い竿のようなものを海に突き出している。その入れ物のひとつひとつは、海底の泥を浚う鋼製のシャベルなのだが、遠目に見ると遊園地の観覧車のようだった。船体の後尾には小型のクレーンがしつらえてあり、先端には大きな
僕と野崎はひと組になり、またも
野崎は、慣れないはずの作業をいとも軽々とこなしてみせた。伏龍だった頃から、とにかく仕事の早いやつだった。要領がよいというよりも、とにかくすべてにおいて基礎的な能力が高いのだ。しかも除隊後、ずいぶんと身体を鍛えているらしい。力も強く、動きはしなやかだ。僕らの組だけ、他の倍に近い効率ですいすいと作業を進めた。
そうこうしているうち、午後の小休止の時間になった。僕らは監督の天幕の前で茶を受け取り、少し小高くなった場所へ座った。
ここからは、岸壁のあたりの様子が見える。その彼方では投錨した先ほどの浚渫船が準備を終え、ガントリークレーン脇の水底を浚いはじめている。さっきの、観覧車に似たベルトがまわり、丸いシャベルが次々と水に没する。そのぶん、別のシャベルがじゃぶじゃぶと泡の中から水面に現れ、いっぱいになった海底の汚泥を運び上げていく。
普通は横に土運船がつき、埋立地などに運んでいくはずなのだが、今回は、そのまま岸壁の上へ土盛りをしていく。おそらく、あの土をそのままこの現場の整地作業などに使うのであろう。そして、船尾のクレーンも回り、開閉式の蟹鋏を海面から差し入れ、やがて汚泥と木材や金属屑などをまとめて挟んで引き揚げる。それも、先ほどの土盛と同じところにぶちまけられた。
野崎は、ふと言った。
「米軍艦艇がもうすぐ進駐してくるということなんだろう。事前に港湾を整備しておけ、とお触れが出たのに違いない。俺たちも、早めに計画を進めないとな」
僕は立ち上がり、岸壁のほうを眺めた。
白い一条の帯が左右に伸び、上には等間隔で
ガントリー・クレーンの近くには、運び上げられてくる海底の汚泥の様子を監視し、必要に応じて大きな棒雑巾で整形する作業員らの影が見える。が、手前の岸壁は、今日も昨日同様に無人なままのようだった。昨日は、そこだけが世界でただひとつ孤立し、永遠に時の止まったような感じのする港だったが、今日は心なしか活気を帯びているように思える。
もちろん、奥の浚渫船の存在のおかげだ。
僕は、その風景になんとなく安心して、沖合を眺めた。
例の浮標は、それぞれ、右に左に勝手な動きをしている。手前のものと、奥にあるものの動きが一致しておらず、てんでんばらばらである。左右に加えて、波に持ち上げられ、押し下げられ、上下の動きや斜めの動きまでが加わってきた。
醜い円柱形の浮標どもは、それぞれ不整合な、勝手な動きで海の美しさを乱した。それとともに、ほっと一息ついたはずの僕の胸のうちにも、小さなさざ波が立ってきた。
僕は、海の色を見た。このまま浮標のあたりを見続けていると、あのどこか歪な、不規則に褶曲した世界の運動法則(そんなものがあればだが)に絡め取られてしまうような気がしたのだ。
僕は、海の色を見た。
そこも混沌としていた。昨日までは、浮標群に囲まれた円形の領域内で青、
それは、海の上に現れた地獄の混沌だった。
僕は目をみはり、そして大きく息をついて、次に岸壁に目を移した。
そうだ。先ほどはあそこだけ規則正しく、秩序だっていた。この世界の
僕は、なにかすがるものを求めて、また岸壁を、一条の白い帯のようになった場所を眺めた。そこにいる限り、僕は安全なのだ。この世界のうちにいられるのだ。
白い一条の帯が左右に伸び、上には等間隔で繋船柱が並んでいる。まるで、にょきにょきと生えてきたキノコのようだ。白帯の上には、雑多なワイヤーやロープ、簀、そして大小さまざまな泊地の付属物が不規則に並んでいる。
雑然としていて、不規則だ。そして人気はないが、そこはこの世界の秩序と法則に従い存在している領域だ。僕は……
いた。
そこに、いるはずのない人間が立っているのを、僕は見た。
いてほしくはなかった。だが、彼がそこにいることを、僕はなんとなく予期していたのだ。だから驚かなかった。だが本当に、そこにいて欲しくなかった。
あの老人だ。深淵に向け釣糸を垂れていた、あの奇妙な老人だ。
言っておくが、老人が立っている岸壁は、ここからたっぷり500メートルは離れている。普通の人間の視力なら、老人の姿も、周囲に並ぶ繋船柱も、白帯の上にちょっとだけ突き出た、ささやかな突起物にしか見えないだろう。
僕がそれをあの老人だと判断できたのは、僕が常人離れした、卓越した視力を保有しているからなのだ。僕の眼には、はっきりと見えた。
あの老人が立ち、僕に向け手を振っているのを。なぜこっちが見えるんだろう? あっちも、僕と同じくらいの視力を有しているのだろうか。あんなに年老いているのに。
それに、さっきそこを見たときは、老人はいなかった。確かにいなかった。
岸壁は無人だった。
そこにまた、突然現れたのだ。
僕は一応、見間違いではないか確かめようと思った。そこでいったん目をつぶり、ぱちぱちと瞬きをしてから、またさっきの方角を見た。もしかしたら、消えてくれているかもしれないとわずかに期待しながら。
甘い考えだった。老人はまだ、そこにいた。
そして、明かに僕に向けて手を振っている。ゆっくりと振っている。見えないはずだが、しかし僕には、老人が微笑みを浮かべているのがはっきりとわかった。
「お、おい。野崎」
僕は、やっと隣に相棒が座っていることに気づいた。頭脳明晰で勇敢で、そして仕事のできる心強い相棒だ。そして、部隊内でも僕に次ぐ視力を持っている。僕は、慌てて野崎の肩を叩いた。いや、殴りつけた。
「早く立て。向こうを見てみるんだ!」
「おい、おい。どうしたんだよ。痛いじゃないか」
野崎は文句を言いながら立ち上がった。そして僕の指差すほうに目をやった。
「岸壁のほうか? なんかあるのか?」
呑気な声で言った。僕はむしょうに腹がたち、こう叫んだ。
「立ってるんだよ! やつが。あの奇妙な釣人が、いま岸壁の上で僕らに手を振ってるんだ!」
野崎はそれを聞くと、さっと真面目な顔になった。彼も、僕の話で唯一、合理的な説明を加えられなかった相手の出現を悟り、緊張して臨戦態勢になったのだ。ありがたかった。
僕は、ひとりではない。