だが野崎は、しばらく額に手を当てて岸壁を隅々まで見渡したあと、残念そうな声を出して言った。
「いや。俺の眼には誰も見えない。繋船柱やワイヤーやウインチや、さまざまなものが転がっているのは見えるが、人の姿は視認できないぞ」
「バカ言うな! いるじゃないか。あの、突端から四つめの繋船柱の脇だ。こっちに向けて、手を振っている。いまもいるぞ!」
野崎は僕の剣幕におそれをなしたのか、青い顔をして、しばらく一生懸命にそのあたりを眺めた。眉根を寄せて、真剣な顔をして睨んだ。そして言った。
「いや、いない。やっぱり誰もいないぞ。俺の眼には誰も見えない。あそこは、ただの無人の岸壁だよ」
少し僕の様子を伺うように、もう一度尋ねた。
「まだ、いるのか?」
「ああ、残念ながらいるよ。全く立ち去ろうとしない」
「一応、聞く。人間は極限まで疲労すると、ありもしない声を聞いたり、ありもしないものを見ることがある。お前、なにかで疲れているということはないか?」
「そこまでの疲労はないよ。それに僕とお前は、海底でその手の経験はすでに何度もしてるだろ?」
「ああ、そうだな。愚問だった。最後にもう一度だけ教えてくれ。まだ、いるか?」
僕は、完全に状況を理解した。そして覚悟を決めて答えた。
「ああ、今もいる。僕の眼にはまだはっきりと見える」
これを聞いて、野崎もついに覚悟を決めたようだ。この頭脳明晰な相棒は、冷静な声音でこう言った。
「そうか……ならば、考えられる可能性は三つあるな。まず、俺が狂った可能性。次にお前が狂った可能性。そしてどちらも狂ってはいない可能性」
「三つめだとしたら、どうなる?」
「そうだな。論理的に言って、お前には見え、俺には見えないなにかがあるということだ。訓練での数値が示す通り、両者の視力にあまり差はないはずだ。つまり」
「つまり?」
「あれは、幽霊だということだ」
二人は顔を見合わせた。そして、同時に言った。
「確かめに行こう」
小休止はもうじき終わる頃合いだったが、知ったことか。
僕らは同時に駆け出した。監督か誰かが叫ぶのが聞こえたが、構わずに作業場を走り抜けた。
途中でどうやら割れ硝子か釘を踏み抜いたみたいだったが、さして痛みは感じない。そのまま走り続け、あっという間に岩壁にたどり着いた。
眼前には、十枚くらいの油じみた
僕らは、海の前へと転がり出た。
白一色に塗られた岩壁は、降り注ぐすべての直射日光を跳ね返し、僕らの視力を容赦なく奪った。僕らは額に手を当て、あたりを探った。奪われた視力が戻ってくると、斜めにうねる海と、その上にとび出る白波とが見えるようになった。続いて、その前に広がる岸壁のへりの様子もわかるようになった。
突端から四つめの繋船柱。
僕は素早く数えた。まさに僕らがいま立っている地点だ。しかしそこには、誰もいなかった。隣には野崎が立ち、額にかざした手を外した。そして僕のほうを向き、少し肩をすくめて言った。
「見えるかい? 俺には見えない」
僕も仕方なく答えた。
「どうやら、可能性の一番めだったらしいな。狂っていたのは僕だ」
「まあ、狂ってるというのは言葉の
野崎が、友を慰めるように言った。
「ああ、ならいいけどな」
僕は言って、そのまま数歩ふらふらと前に出た。野崎が心配して身を乗り出しかけた。そのまま海に落ちてしまいそうだったから。
僕は、踏みとどまった。自分がなにかとんでもない状態にいることは自覚していたが、まだあの老人が、そこらでひらひらと手を振っていそうな気がしたのだ。
岸壁の上は何度見ても誰もいない。波間にもなにも見えない。あの老人は、海に飛び込んだわけではないのだ。
確かめる先がなくなり、僕は困り果てて、そのまましばらく沖合を眺めた。
先ほどは、浮標の内部の水面がさまざまに変色し、混沌とした色合いで僕の意識をかき乱した。だがいま見るとそこは、昨日のような不気味だが美しい秩序のもとに、青、翡翠、黒の順に並んでいる。わずかにうねりはあったが、海は静かだった。
そして黒い領域の下には、本当になにか大きな穴でもありそうに思えた。あの禁域の伝説は、どうやら本当のようだ。僕はそこに潜ろうと話していたのだが。もう、できそうにない。
僕は、狂ってしまっているのだ。
先ほど結成された、戦友との宝探しの冒険からも、この状態では降りなければならないだろう。僕は野崎への申し訳なさで胸がいっぱいになった。なにか言って謝ろうと思ったが、言葉が何も出てこない。
涙が溢れてきた。僕は、この世からオサラバしなきゃならない。こんなに唐突に。しかも正気を失うという、たぶん死ぬよりも残酷な形で。
しばらく立ったまま
僕はもうだめだ。アトハ、マカセル。
どこかで聞いたような気がした。僕は、いま自分の言った言葉を、前にどこかで聞いたことがある。昔のことではない、ほんの最近のことだ。そして僕はそれを、かなり特殊な場所で聞いた。
そうだ、海底だ。
目の前いっぱいに広がる、海底の亀裂の前で聞いたのだ。
その言葉を言ったのは、僕がそれをいま言おうとした、まさにその相手だ。
野崎だ。野崎が僕に言ったのだ。
深い深い海底で。あの奇妙な夢の中の、深淵の前で。
アトハ、マカセル。
野崎はそう言って、僕の目の前から飛びのいた。そしてそのまま永遠に姿を消した。
夢の中では、そのあとすぐ、深淵の底から大きな原子爆発が起こったのだ。僕も彼も闇に呑まれ、そのまま溶けてなくなり、海底の闇にたゆたう微粒子へと還った。
任せると言われて、僕は友に託されたその任務を果たせなかった。
すまん、野崎。
僕は口の中でそう呟いた。夢の中でも友の期待を裏切り、いままた、現実でも友の計画を手伝うことができぬまま脱落するのだ。
アトハ、マカセル。
僕は、もう一度口に出して言った。
横にいる野崎に聞こえるように。おそらく正気を失った戦友のことを心配し、次にどうしようかその明晰な頭脳で考えを巡らしているに違いない、僕のただひとりの友に。
僕は、野崎のほうを見た。
いなかった。
僕を気遣い、気が狂った僕に、やさしい言い回しでそっと寄り添ってくれた僕の戦友はそこにいなかった。後ろや、反対側にまわったのか? ぐるりと見渡してみたが、野崎はいなかった。
あの老人とともに、消えてしまった。
まずは落ち着こう。僕は考えた。目の前がくらくらとし、白帯からの反射光が容赦なく僕の額を
野崎の姿を見つけた。
忙しくまわる浚渫船のベルトと、その動きにつれドボドボとこぼれ落ちる汚泥、そして逆さまの
野崎は、そちらに向かってとぼとぼと歩いていた。背中を丸め、うつむいて、まるで年老いた巡礼が西方浄土を目指して旅を続けているかのような、わびしい姿だ。先ほどまでの、自信と未来への確信に満ちた男とは、とても似ても似つかぬ有様だった。
僕は、大声で野崎に向かって呼びかけようとした、が、うまく声が出ない。とたんに
僕は思った、これはまた夢ではないかと。
だがそうではなかった。次の瞬間、声は確かに出た。野崎、と僕ははっきりと呼んだ。しかし返事をしないので、僕はもう一回より大きな声で叫んだ。
「野崎、戻れ! そっちに行くな! 行くとお前は……」
なぜそんなことを言ったのか、僕にはわからない。だが、そっちに進むと破滅が待っていることが、僕には本能的にわかった。野崎は自分の意志で歩いていない。あの老人が彼を操っているのだ。姿は見えないが、どこかで操っているのだ。
「野崎、行くな!」
僕は必死に叫んだ。そして気づいた。
僕のすぐ隣に、あの忌まわしい老人が立っていた。まったく感情のない目で、とぼとぼと歩いていく野崎の背中を見つめていた。
僕は泣いた。友のために泣いた。老人に友の命乞いをするべきなのだが、絶対にそれは聞き入れてもらえないことが、なぜかそのとき僕にはわかった。
野崎の丸くなった背中は、そのまましばらく岸壁のへりを歩き続けた。やがて激しく回転する浚渫船の脇に達した。遠くでベルトの動きを監視していた作業員がなにか叫んでいる様子だった。だが野崎は全く反応せず、そのまま歩き続けた。
とつぜん、その身体が大きく
激しく回転する浚渫船のベルトと、そこに取り付けられた汚泥浚渫用の鋼製シャベルが、ぷかぷかと浮かぶ野崎の身体を上から激しく叩いた。水柱の一部が赤くなり、野崎の肉体はバラバラに砕かれ、そのまま船の下の真っ黒な海に呑み込まれていってしまった。