目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第17話

 それから起こった一連の騒ぎを、実は僕はもうよく覚えていない。


 自分の戦友の死を、ずっとそばにいながら防げなかったという無力感もさることながら、おそらくはその原因となった相手を捕まえることも出来なかったことで、僕はただずっと茫然自失していたのだ。


 老人の姿は、僕のすぐ横にはっきりと見えた。なんらの感情もないあの独特な眼で、口ではぶつぶつとなにかの呪文のようなものを唱えながら、老人はずっと、目には見えない力で野崎の背中を押し続けた。


 すべてが終わり、野崎の肉体がばらばらの肉片となって海に吸い込まれてしまったあと、僕が涙に濡れた眼を横に向けると、もうそこに老人はいなかった。


 遠くから僕の姿を目撃していた人間は、作業現場にも、浚渫現場にも何人かいた。だが彼らは口を揃えて証言した。僕は一人でただ茫然と立ち尽くし、友の死に至る行進を止めようともしなかった、と。


 彼らは同時に、野崎が海に落ちた瞬間も記憶していた。僕とはたっぷりと距離があり、犯人と疑われることはなかった。ただ、友を助けようとしなかったことに倫理的な非難を向けてくる者はいた。


 僕はそうした非難に対し、なにも抗弁できるわけがない。彼らの目には、僕の脇に立った真犯人の姿は映っていなかったのだから。


 この島に警察はない。なので、工事現場を仕切る監督が、あとで届出をするために簡単な質問を投げてきた。曰く、なぜ作業を放り出して海のほうへ行ったのか? どちらかが、どちらかのあとを追っているように見えたが、逃げていたのはどちらか? 両者の間になにか確執や怨恨などあったのか? そもそも両者の関係は? なぜ彼は自殺したのか、思い当たる理由はないか?


 僕は茫然としながら、答えられることには答えたと思う。誰が見てもあきらかに事件性のない、ただの自殺か事故だった。だから質問もおざなりなものだったし、僕もすぐに解放された。だが、さすがにその日の残りの作業にく義務は免ぜられ、僕はひとりで、あの蒲鉾屋根の集会場の中にぽつんと取り残された。


 作業の合間に、太田が何度か心配そうに僕を覗きに来た。が、いまは声をかけるべきでないと思ったのだろう、すぐに作業に戻っていった。


 やがてその日の作業が終わり、作業員たちは三々五々、僕のいるほうに戻ってきた。彼らが交わす会話の内容は、そのほとんどが先ほど起こった大事件についてだ。数日前に起こった岸壁での首吊り事件も衝撃的だったが、今度は、自決者の肉体がバラバラに切り刻まれてしまうという凄惨な結末までもがついている。


 野崎の肉体は、浚渫船のシャベルに砕かれ、また高速度で回転するベルトに切断されて、主に七つの大きな肉の塊になって海に沈んだ。潮流の都合か、ガスでも溜まったのか、そのほとんどはすぐに浮いてきた。責任を感じた浚渫船の乗組員がその日の作業を中止し、船尾の小型クレーンで一生懸命に泥を掻いて、残りの断片、骨盤ごともげた左足を拾い上げた。なぜかまだ大腿部の静脈から出血が続いており、クレーンの先についた蟹鋏かにばさみの爪の間から、海面に向かってどぼどぼと黒い血がしたたっていたという。


 戦地で、あるいは広島で、数多の人間の死に慣れた男たちにとっても、どうやらその光景はよほど恐ろしいものだったようだ。僕に気を遣い声を潜めて話す者もいたが、こんな不気味な厄介ごとを引き起こした二人組の片割れに対し、わざと大きな声をあげ、非難の気持ちをぶつけてくる者もいた。


 彼らは一様に、これは何かの祟りだ、と語り合っていた。先ほど太田が話してくれた人体実験の噂は、この時点ではもう、ほぼすべての作業者たちの知るところとなっている。このまま作業を続けると、その祟りがいつ自分に向いてくるかわからない。


 幸いにも、この現場の解体工事は、明日の昼で終わりとなる。工程も順調で、特に延期はなさそうだった。


 その日の夕食もライスカレーが振る舞われたが、それを平らげる者は少なかった。僕も、一切口に入れなかった。やがて日が暮れ、たいへんな一日に疲れはてた作業員たちは、蒲鉾屋根の下で早々に雑魚寝を始めた。


 僕はまんじりともせず、蒲鉾の裏を支える細い骨組を眺め続けていた。だが、夜半になり、皆が完全に寝静まったあと、やるべき事がひとつあると思っていた。


 例の提督の部屋に忍び込むのだ。今夜、野崎とともに実行しようとしていた計画を、僕一人でも実行してやる。これだけは心に決めていた。


 もしかしたら、あの謎の老人が再度現れ、今度は僕を標的に致死的な攻撃を仕掛けてくるかもしれない。この世界の物理法則をまるで無視したかのように出没するあの老人は、もし敵なのだとしたら大変な脅威だ。だが僕は、たとえ相手が超自然的な存在であろうと、それと相対することになんら恐怖は感じない。たとえかなわないとしても、次に出会った時には絶対に戦ってやるつもりだった。


 僕はすでに、海底でいちど死んだ身だ。実際には死に損ない、今日までなんとか命を長らえてきた。とはいえ、心の中はずっと虚ろなままだ。


 そんな僕に、野崎が新たな希望を運んできてくれた。もう一度だけ伏龍となり、海底に舞い戻る。そして巨大な装甲空母の残骸へと降り立ち、その中に残された財宝を持ち帰るのだ。


 奇妙なことだが、これをやり遂げなければ、たぶん僕の戦争は終わらない。心にぽっかりと空いた穴を、どうやっても埋め合わせることができない。そう感じられた。


 あの長い長い水底の暗闇での潜伏。永遠に続くかと思われた無為。僕は海に溶け込み、闇に同化した。個としての僕は消滅した。


 しかし僕は地上に戻った。

 個の人間に戻って、再び陸地に上がった。


 懐かしい陸地に、僕の居場所はなかった。僕がこのまま現実と折り合いをつけ、なんとか生きていくためには、海底で経験したあの際限のない空虚から、必ず何かを持って帰る必要があるのだ。


 そうすれば、ケリをつけられる。


 僕はふたたび、この世界で生きていくために必要な魂を取り戻すことができる。


 野崎もおそらく、僕と全く同じことを感じていたのだ。言葉にしなくとも、気持ちは通じあっていた。僕らは、二人でやり遂げるつもりだった。


 だが、野崎は殺されてしまった。

 アトハ、マカセル、と言い残すことすらせずに。


 僕は一人だ。この世界にたった一人だ。だが、やらねばならない。

そうだ、まずはここから起き上がるのだ。立ち上がれ。そして密かにここを出て、時計台のある旧司令部棟に向かう。提督の部屋はわかっている。そこの鍵はないが、必要なら扉を叩き壊して中に入る。棟のなかは無人のはずだ。そして机の引出しも叩き壊し、中にある図面を盗み出す。


 今回は、それだけだ。


 そして広島に戻り、雷鳳の沈没位置を正確に把握してから、協力者を募る。またここに来て、今度は三号棟の一〇四号室に忍び込み、例の特製の潜水服を確保する。


 それから小船を出し、協力者に手伝ってもらって着装し、そのまま海中に身を沈めるのだ。

 あの暗い海底に行くのは、僕ひとりでいい。




 僕は背嚢に入れていた木製懐中電灯を手に、外へ出た。もう肌寒い頃合いだ。沖合から微かに夜風が吹き寄せてきていた。旧司令部棟は、このすぐ近くにある。軍靴は棟内の廊下などで盛大な音を立てるので、今回は地下足袋を履いた。


 すると背中から、杉尾、杉尾、と小声で呼びかけてくる者がいた。太田だ。

 彼も外へ出てきたが、僕はいきなり懐中電灯を点け、彼の顔を照らし出してやった。


「なんの用だい?」

 太田は、顔をしかめて光を避け、答える。

「いや、様子がおかしかったからさ。あんな事があったし、まさか」

「まさか、早まったことでもしないか、と思ったのかい?」

「あ、ああ。まあ、そうだ。死んだやつは戦友だったんだろ?」

「そうだよ。だが、後追い自殺するほどの仲じゃない。特攻隊で一緒だったというだけだ」

「そうか。お前もまだ戦争を引き摺っているんだな。もしなにか、俺にやれることがあったら……」


 このとき、僕はこの男を、おそらくは彼自身が望んでいるように、僕の協力者にしようかと考えた。このまま司令部棟に一緒に忍び込み、海図を盗み出す手伝いをさせる。そして後日、準備万端整えて禁域に向け小舟を出す。万事につけ気遣いのできる太田は、うってつけの相棒になりそうだった。もちろん、野崎の代わりにはならないが、海に潜るのは僕ひとりだけでいいのだ。


 だが、僕の脳髄とは違うところにあるなにかが、彼をこれに巻き込むことを拒否した。僕は瞬時に心を決め、太田に申し渡した。

「気持ちは嬉しいが、あんたには、先にやるべきことがあるだろう? 逃げずに、まずは勇気を持って故郷に帰れ。そして赤ん坊の、いや、成長したあんたの子の笑顔を正面から見てやれよ。それが、あんたの戦争を終わらせるための、ただ一つの方法だ」


 太田は、ひどく苦しそうな顔をした。僕はさらに言った。

「僕は、別のやり方で戦争を終わらせる。残念だが、これから僕が行くところは、あんたの来るべき場所じゃないんだ。じゃあな」


 僕はそう言って、その場を立ち去った。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?