僕は、一人であの時計台の前に立った。尖塔を真ん中に、まるで鶴が翼を広げたような格好で、三階建ての司令部が僕を包囲する。時刻は午前の2時半を過ぎたところだ。この時計特有の時差を考えても、すぐにあの打鍵音が鳴り渡る心配はない。
司令部棟の中は当然のこと真っ暗で、なんの音もしない。おそらくは人もいないし、ネズミやゴキブリだって動いてはいないだろう。そう思わせるほどの
僕は棟の脇にまわりこみ、積み上げてあった古いゴミ箱のような雑多な邪魔者をよけながら、入り口を探した。蒲鉾屋根の方角からは死角になっていたから、小さな木製懐中電灯を点灯した。
やがて、通用口と思しき簡素なドアに小窓がはまっているのを発見した。僕は作業場から失敬した小さな木槌を出して、なるべく音がしないようにそれを叩き割った。窓枠は小さいが、ぎりぎり身体を通せそうだった。割れ残りのガラスを残らず払い落とし、木槌をベルトに挟んで、僕は両の腕を中にさし入れ、全力で自分の身体を中に押し込んだ。
想像と違い、ここ数日の僕は少し肉がついていたらしい。するりとはいかず、腰の周りと尻がつっかえた。だが、少し音は立ったが力づくで身体を振り、腕を中から突っ張ると、僕の身体は勢いよく中の暗闇に踊り込んだ。ちょうど、窓を抜けて空中で一回転した格好である。着地点に変なものを置かれていなくて助かった。
僕はそのまま司令部の廊下を抜き足で歩いた。ゴム底の地下足袋を履いているので、もともと音は立たないのだが、一応の用心のためだ。外光が一切入らず、あまりにも暗いので、仕方なく懐中電灯だけは
提督の自室は、2階にある。僕は大きな階段を見つけ、そこを登った。踊り場に腰くらいの高さの金属製の花台が配置され、その上に丸い鉢が置いてあった。植えられた何かの花が枯れ、かさかさの茎や花びらが周囲に散乱していた。
2階の様子も、だいたい1階と同じだ。同じような部屋が並び、同じような扉が閉まっている。電灯の小さな光が当たるとそこだけが白く浮かび上がり、その周囲、同心円状に青白くさらにその奥の様子が映じた。光と闇のあわいは青黒く、その奥には何かが潜んでいそうに思える。
そうした光景にも僕はまったく怖さを感じない。なぜならこれは数ヶ月前に、栄進丸やその周辺の海底で見たのとほとんど変わらぬ光景だったからだ。
僕の心にはまだ余裕があった。なんならこの闇の中に、あのときと同じ、なにかわからぬ生物が泳いでいないか、あるいは這っていないか、期待を込めて確かめてみたほどである。もちろん、どこに光を向けても動くものは何もない。塔上ではあの時計が不正確な時を刻むが、中では時は止まっている。まるで永遠に凍りついているかのようだ。
仕事を、しなければ。
やがて僕は、野崎の言っていた提督の自室を見つけた。当然のこと扉は閉まっている。万が一にでも鍵が開いていないか、ガチャガチャと把手を握って確かめてみたが、もちろん施錠されていた。仕方なしに、僕は木槌を取り出し、上から把手に叩きつけた。
かなりの音を立ててしまったが、わずか二撃で、頑丈なはずの把手は真下にもげ落ちた。僕はすぐに腕づくで扉を開き、中の暗がりに電灯の光を当てた。
空気はひんやりとし、どこからか
そこは、主が帰ってきてもすぐに使えるようにきちんと整理整頓されていた。小さな応接用の革張りソファーに書類棚、花の活けてない空の花瓶。そしてペン置きと時計だけが置かれた事務机。野崎がほぼ言った通りの状況だ。
机は幸いにもあまり頑丈なものではなさそうだ。多少の音は立つだろうが、なんとか引出しを開けられそうである。しばらくごそごそとやって、意外と簡単に開けることができた。
あった。
野崎の語っていた禁域の海図が、一番上に重ねてある。僕は手に取り、折り目を広げて確かめてみた。
上のほう、つまり北には広島の海岸線が描かれ、やや距離を置いて呉そしてこの大咲島の周囲の様子が、くっきりとした描線で描かれている。海面には小さく深度が書き入れられ、立入禁止区域の境界には太い破線が引いてある。
海図の中央にはこの大咲島の姿が描き入れられ、それに接して、ほぼ円形に禁域が記されている。予想外に広い。そして円の中心からやや西南にそれたところに、ペンでいくつかバツがついており、「現場」と但し書きがあった。
暗がりでよく見ると、バツは長方形をなすように四つ描かれ、それぞれが空母の飛行甲板の四隅を示すことがわかった。だいたいの縮尺に当てはめてみると、長辺は200メートル以上、短辺でも30メートル以上はありそうだった。
つまり雷鳳は、艦体が破断したり、四分五裂したりすることなく、ほぼ原形を保ったままその真下に沈んでいるということだ。海図はかなり精確なものであり、おそらく船出する場所から直線を引き、方位を保って距離だけを測っていけば、必ずその位置にたどり着けるであろう。
海図に付帯する書類などは見当たらなかった。僕は素早く図を細かくたたみ、胸ポケットに入れた。そして、鍵は壊れたままだが一応、引出しを元に戻し、肘で押して角度の変わってしまったペン置きを元のように直した。
階下で、がたりと音がした。
僕は反射的に懐中電灯の灯りを消した。部屋の扉は開けたままにしてあるが、一面の闇になってしまったので、なにも見えない。そこから外の空気がかすかに流れ込んでくるのがわかる。まるで深海で
僕は耳をこらした。さっきの音のあとは何も聞こえなかったが、慎重にそのまま動きを止めた。呼吸も最小限に抑えた。落ち着いてはいたが、心臓が
しばらく、闇の中に沈黙が続いた。僕は全身の動きを止めながら、頭ではこう考えていた。そうだ、ここはまるで海底のような場所だ。
鼻で吸い、口で吐く。
ここは空気のふんだんにある陸上なのに、僕はいつしかまた海底での鉄則に立ち戻り、あの特殊な呼吸法を続けていることに気づいた。
ごくわずか、鼻元で音がする。呼吸とともに胸の筋肉が上下する。
階下は無音だ。僕は股関節を柔軟に動かして、蟹のような横歩きで動き、部屋の扉に達した。それからゆっくりと立ち上がり、外の様子をうかがった。
地下足袋は、わが帝国による偉大な発明品だ。真に世界に誇り得る完璧な工業製品だ。僕は全く音を立てずにするりと廊下に出て、懐中電灯を点灯し、左右の闇に光を当てる。
どうやらそこには、何もいないようだ。
さっき歩んできた同じ廊下を逆方向に、今度は足音を潜めてひたひたと進む。すると、また音がした。さっきよりも小さいが、より近くで、ことりと音がした。
僕は気づいた。さっき見かけた腰の高さの金属製の花台。それになにかがかすかに触れた音だ。あったのは階段の踊り場だ。ということは、先ほど階下にいたそのなにかは、今は位置を変え、こちらにひたひたと近づいて来ている。
またかすかに音がした。音というよりは気配だ。
ある程度の質量のあるなにかが、ゆっくりと身を持ちあげ、階段を登っている。ゆっくりと登っている。相手も身を潜め、こちらへひそかに接近しようとしているのだ。
しかし僕は地下足袋を履いている。厚手のゴム底で、全く音を立てずに移動することができる。恐怖は感じない。だから僕のほうも相手に向かって、廊下をひたひたと前進した。
踊り場の上の階段は、たしか15段ほどだった。このままの速度で前進すると、たぶん相手が登り切るのと同時に鉢合わせとなる。それもよかったが、現在、僕には奇襲の優位があった。こちらは相手の接近に気づいているのに、相手はどうも僕の存在を感知していないように思えた。僕は、先に相手の虚をついて攻撃しようと考えた。
三歩、大股で歩き、相手に先んじて階段の真上に到達した。そして点灯し、下の闇にまっすぐ光を当てた。