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第19話

 ぎゃっという、人間だか猫だかわからないような大きな声がして、大きな黒い塊が下方にすっ飛んだ。そのまま花台にぶつかり、上に置かれた陶器の花瓶が落ちた。ぱりんと澄み切った音で割れたと思いきや、中に土が入っているので、ただ、どすんという鈍い音がしただけだ。逆に下の花台のほうが派手な音を立てて倒れた。

 その黒い塊は、素早い動きで踊り場から姿を消し、階下へ逃れていった。僕も点灯したまま後を追ったが、今度は僕がひっくり返る番だった。足元がとつぜん無くなる感覚がし、僕の身体は宙を飛んで数段下の階段の角にぶつかった。尾骶骨びていこつを打ったので思わず声が出た。さらに僕は勢いのままずり落ちて踊り場に転がった花台に突っ込んだ。

 ちょうど花台の脚のあいだに僕の脚が差し入れられる格好になり、抜こうとしたら、結果的に地下足袋で蹴り飛ばすことになった。金属が階段に当たってガチャン、ガチャンと転がり落ちる音がした。

 転んだ理由がわかった。

 転んだ拍子に僕は手をついたが、その手がなにかヌルヌルしたものに触れたのだ。電灯をとり落としてしまったのではっきりとはわからなかったが、指と指を開くと、あいだに粘膜のようなものが薄く広がるのが見えた。

 僕は直感した。さっきの黒い影は、きのうの夜に僕が遠目に見かけた、海から上がり、建物のどれかに身を隠した人影と同じものだ、と。あのときも、白い岸壁の上に黒々とした痕が残っていた。なにかを引き摺ったような連続した痕跡だった。足跡ではない。

 僕はまず四つん這いになって体勢を立て直し、息をついて立ち上がった。もう急いで追っても、相手にすぐ追いつくことはできない。また、じゅうぶんに脅したから、相手がとって返してきて襲い掛かってくる気遣いもなさそうだった。

 それよりもまず、懐中電灯を探すことだ。いまの拍子でどこかに飛ばしてしまった。もう点灯していないから、壊れてしまったか、中の電池が吹っ飛んでいるかだ。僕は踊り場の窓から入ってくるわずかな星あかりだけをたよりに、踊り場のあちこちを手で探ってみた。土や、枯葉や、陶器の小さなかけらが次々と手に触れたが、電灯のありかはわからなかった。どこかの角っこや、光の当たらぬ闇の中に埋没してしまったのだろう。

 あるとしても、それが再び点灯できるとは限らない。僕は諦め、闇の中をなにも見えぬまま追跡する覚悟を決めた。

 人間は、本能的に暗闇を怖がるという。

 太古の昔、まだ人間が数ある生物種のなかの、特に脆弱なほんの一種族であったころ。闇から襲い来たる猛獣や毒虫などは、彼らが生存をはかる上で最大の脅威だった。やがて人間は火を起こし、それを使いこなす術を覚えた。毎夜、大きな焚火を囲み、そうした脅威から身を守った。闇を照らし、そこにあるものを視認してから、いち早く逃げるか、踏みとどまって戦うかを決めた。

 こうして人類は目に見える脅威に対処できるようになった。が、目に見えないものは相変わらず恐怖と戦慄の対象であり続けた。人間は、闇を怖がる生き物だ。

 ところが、僕は違う。

 もう何十時間、あるいは数百時間も海底に潜り、そこで息を潜めてじっとしている訓練を積んで来た。光の届かぬ海底の闇とは、すでに友達だ。いや、自分がむしろその闇と同化し、闇そのものになって、ずっとそこに在り続けたのだ。

 僕は、闇を恐れない。

 また僕はすでに一度、命を捨てている。だから闇の彼方からどんなものが姿を現そうと、それに対処する準備はできている。もちろん何も見えないからこちらは圧倒的に不利だ。だが、もしかしたら相手だって同じ条件なのかもしれない。

 僕はそのまま闇に分け入り、今の、なんだかわからないものを追跡すると決めた。

 幸い木槌はベルトの間に挟んだままだ。もし相手と物理的に格闘せねばならなくなった場合、有効な武器になるだろう。

 僕は息を整え、ぬめりに気をつけて階下へと降りた。左右を見渡したが、そこに残っていたわずかな気配から、さっきのやつは右に行ったと見当をつけた。そのまま右方の廊下をずいずいと進む。たまに地下足袋の端っこが粘性のあるものに触れるような感覚を覚えた。

 当たりだ。明かにこれは奴の通った痕だ。

 この建物のつき当たりは、奥の別棟へとつながる通路になっている。おそらく相手は、そちらへ逃げていったのだろう。

 もともとそちらへ侵入する計画はなかったので、僕はあらかじめ構造をよく理解していなかった。しかもこの一面の闇だ。どこからか差し込むかすかな月あかりだけで、目の前数センチが僅かに見える程度である。だが僕は恐れずに進んだ。闇は僕の友達だ。

 廊下の突き当たりに達すると、別棟通路の扉が開けられているのを発見した。おそらくあいつは、さっき、ここから司令部棟に入ってきたのだ。ということは、おそらくこの先に、あいつが来た場所、つまり海へ至る出口があるはずだ。逃してなるものか。僕は正体を見極めるまでは追跡を続ける覚悟だった。

 すると、通路の先の暗がりをよたよたと歩く人影のようなものを見つけた。動きはさほど速くない。まるでびっこを引く人間のように、前後左右斜め、不規則に上体を揺らしながら前に進む。このまま一気に駆ければ、僕はやつに追いつける。

 僕は、相手を脅すためにわっと叫び、猛然と闇の中を駆けた。

 相手は驚いた様子で、どしんと派手な音を立てながら、しかし自身も速度を上げて遠ざかっていった。しかし行く方向を間違えたらしい、一刹那こちらへ戻ってこようとし、僕が迫っているのを感じてやはりそのまま前に進んだ。しかしこれで随分と道草をくった。僕は、至近距離にまで迫った。

 醜く揺れる背中が見える。ほとんどが闇に隠れているが、それがどことなく粘性を帯び、かすかな明かりにもキラキラと反射するのがわかった。やつの身体は表面がどこか湿っているようだ。はっきりとは見えないが、形もどこかおかしい。正体はわからないが、それは明らかに普通の人間ではない形状をしていた。

 追いながら、これはもしかしてこの島に多数収容されていたという、なにか未知の難病にかかった患者ではないかとも思った。

 僕は知識が深いわけではないが、それが癩病らいびょう患者ではないことは明らかだ。野崎も言っていた。癩病は伝染病ではなく、人が思うよりも危険な病気ではない。この島に収容、隔離されていたのも、一種のいわれなき人権の侵害ともいえるのだ。おそらく彼らはすでにこの島を出て、本土の他の医療施設、または新たな隔離施設に移っているに違いない。

 いま前を逃げる相手が罹っているのは、もっとなにか不思議で重篤な疾患だ。たぶんあの背中は裸で、皮膚の表面が荒れ、その病気特有のさまざまな分泌物が粘液となって出てきているのだ。

 そしてやつは、何らかの理由で、必ずこの棟の外に出るのだ。理由はわからないが、あの黒々とした海を目指すのだ。

 僕はひたすらに追った。また角を曲がるやつの影が見えた。今度は捕まえられそうだ。僕もその角に達し、壁にぶつからないように素早く方向転換した。

 そして、あわてて立ち止まった。

 二、三歩つんのめり、やっとのことで身体が前に進むのを止めた。

 そこは、屋根の高い大きな講堂になっていた。もう完全に司令部棟を離れ、隣接した別棟の中に入り込んでいた。高い位置に明り取りの窓が何枚かはまり、月の光が数条の白い柱となって、そこから斜めに差し込んでいる。

 ほとんどが暗がりであることには変わりないのだが、数カ所にだけ光が差しているので、その周りがぼうっと、にじむように淡く照らし出されている。

 やつがいた。

 はっきりとはわからないが、かなり大きな、僕とほぼ同じくらいの体格をした生き物だ。人間かもしれないが、なにか別のものかもしれない。顔かたちは見えない。そこだけが完全に闇に没している。

 僕は、あらためて周りの様子をうかがった。どうやらここは、行き止まりのようである。そしてさらに気づいた。

 やつは、一人ではない。この講堂のあちこちの影にやつの仲間が潜み、こちらに向かって立っている気配を感じた。

 どこかとても嫌な匂いが鼻をついた。なにかが腐ったような生臭い匂いだ。長らく放置されていた犬猫の屍のような、おそろしく不快な臭いだ。

 彼らは、何らかの意図を持ってそこに待ち受けていたような気がした。

 もしかしたら、僕はやつにまんまと誘い出されたのかもしれない。これは逃げ場のない死の罠だったのかも。僕は、ベルトの間に挟んでいた木槌の柄を、汗ばむ手でぐっと握りしめた。

 彼らはしばらくそのままじっとしていたが、やがて細かく震え、その場で痙攣するかのように身を捩り出した。それぞれが動き出したことで、潜んでいたやつらの数が分かった。おそらく十四体はいる。いくら闇に恐れを抱かぬ僕でも、これだけ多数の正体のわからぬ生き物が、一斉に意味のよくわからない運動を始めたことには、いささかの戦慄を覚えざるを得なかった。

 それらはひとしきり同じような、しかしひどく不整合な混沌とした動きを続け、そして全個体が誰かに指揮されていたかのようにぴたりと静止した。ついで、それぞれがおそらく頭にあたる部分からかすかな光を発し、うねうねと震えるように、身悶えするように、身体を捻り、よじり、反転した。

 それは生き物であった。明らかに何かの有機物で、機械仕掛けではない、自然の内発的な力で不規則な律動をする生物であった。

 あの、倉庫の暗がりの中で見たものと同じだ。それぞれ大きさや形は違うが、根本的に同じものだ。それは生き物だった。人間とは違う、なにか全く違う生き物だった。

 僕は、倉庫の前に立っていたときと全く同じ状態になった。全身が凍りついたようになり、動こうにも動けない。

 やがてそれらは、蛇や蜥蜴とかげが地を這うような音を立て、暗がりの中から、僕を目がけて次々と前進し出した。そしてまるで僕を一斉包囲し、集中攻撃をかけるようにじりじりと輪を狭めてきた。

 僕に近づくにつれ黒い影同士の距離が相互に近づき、すぐに切れ目のない壁のように横に繋がってしまった。

 僕の足は、しばらく床に固着したかのように動かなかったが、その明かな危機的状況が新しい力を与えてくれた。僕は伏龍だ。じっと海底に潜んで時期を待つが、動くべき時には俊敏に行動に移る。僕の身体の中には、強靭なバネが埋め込まれているのと同じなのだ。数ヶ月ものあいだ重ねた厳しい訓練が、このぎりぎりの際で役に立った。

 とはいえそれは思考の結果ではなく条件反射に近い。生物としての自己保存本能だ。

 とても敵う相手ではないことを見てとった僕は、唯一の退路である、いま入ってきた場所に向かい後退りした。

 あのむっとする汚泥の臭いが、全方位から漂ってくる。しかもそれはやつらの接近につれどんどんと強く、濃密になる。今にも失神してしまいそうだ。

 さっさと身をひるがえして司令部棟への連絡通路に逃げ出したかったが、いま背中を見せると、やつらが前に差し出す、腕のような、触手のようなものがシュルシュルと伸びてきて、僕を絡め取ってしまうような気がした。このままでは逃げきれない。

 僕は決断した。この相手に効き目があるかどうかわからないが、低い獣のような唸り声を上げて敵を威圧し、逆にドンと音を立てて一歩前へ出た。やつらの動きが止まった。

 ついでベルトから木槌を抜いて、めちゃめちゃに振り回した。まるで旗か暖簾のれんを叩くようなかすかな手応えがあって、やつらの数体が苦痛に身をよじり、身体を折るのがわかった。多少の効果はあるらしい。僕は自分でもよくわからない叫び声をあげ、さらに前に出て、数体を叩き伏せた。

 明らかに形勢は逆転した。やつらは人間がこのように反撃してくることを予期していなかったようだ。動きが完全に止まり、やや後ろにずりずりと後退を始めた。

 好機だ。

 僕はさっとやつらに背を向け、木槌を放り捨て、ただ全力でいま来た闇を駆けた。



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