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第20話

 翌日、給金を受け取って早々に広島市内へ戻った僕は、ふたたび宿なしの生活を始めることになった。


 あの現場自体は順調に進捗していたが、野崎の一件などで港湾の浚渫や整備が遅れており、その補助業務について現地で若干の追加募集があった。が、僕はそれに応じず、昼にやって来た帰りの船に一番に乗り込んだ。


 機帆船の船橋から誰かが顔を出し、なぜか僕の姿を見てニヤッと笑った気がした。が、源の姿はどこにもなかった。

 太田は、あのあとどうしたのかわからない。島に残ったのか、あるいは僕と同じ船に乗って故郷の子供に会いに行ったのか。あの夜、会話を交わして以降、彼の姿を見ていないのだ。


 いくらなんでも限界だった。


 島に足を踏み入れてからわずか数日、わけのわからないことばかりが起き、あろうことか無二の戦友を目の前で失った。それも、戦争の時ですら見たこともないような惨死だ。闇の中で僕を取り囲んだ正体不明の生き物や、現れたり消えたりするあの謎の老人についても、全く何もわからない。


 野崎と組み、禁域に眠る宝物を探り当てて過去と決別しようと考えたが、もう、そんなことはどうでもいいことだった。

 僕は、この島をすぐに立ち去りたかった。あの禁域から離れたかった。


 去り際、沖合から浮標に取り囲まれた禁域をちらりとだけ眺めてみた。あのときのように禍々しい不整合な光を発しているのではないかと思ったのだが、そこにはなんの変哲もない鉛色の水面が、ただずっしりと横たわっているだけだった。


 僕は大咲島を離れた。二度と戻るつもりはない。




 さて、再びこの一面の焼け跡の中で、食うや食わずの生活だ。

 手元には、切り詰めれば三月はなんとかやっていけそうな現金はある。だが、それを元手に何か商売をしようとか、さらに金を稼ごうとか、そういう前を向いた意欲はまるで無くなっていた。


 このままじゃ、一年も経てば飢え死にだな。

 僕はそうひとりごちた。苦い笑いがこみあげる。


 このころになると、宇品埠頭に上陸してきた占領軍の米兵たちが、市内の放射能汚染の数値を見た上で、おそるおそる市内にも入り込んできていた。本来なら、僕が伏龍として海の中へと叩き込むはずだった奴らだ。思っていたほど大柄ではないし、ほとんどの連中は別に傲慢でも乱暴でもなかったが、その血色の良さは、僕らとは根本的に栄養状態が違うのだということを思い知らされた。また、奴らの腕には、たいてい一人か二人、厚化粧をした日本の女が嬌声をあげながらまとわりついていた。


 道はまだ瓦礫だらけで、あちこち凹凸があり、歩くには水溜りをよけなければならなかったが、焼け跡の間には再びぽつぽつと小屋が建ちはじめ、粗末な天幕などが差し渡され、そのあちこちから濛々もうもうと湯気が上がっていた。


 店の中では、ふかし芋や水団すいとん、あるいは成分不明の焼酎などが出された。昼間から赤い顔をし、酔っ払ってふらふらと歩く帰還兵などがやくざ者に痛めつけられたりしていたが、それはきっとこのカストリ焼酎にやられたせいだ。また、溶いた小麦粉と菜っ葉の上に、なんの肉だかわからぬペラペラの薄肉を一緒に焼く、お好み焼きなる珍妙な料理を出す店があちこちにできていた。


 行き交う人に少しづつだが笑顔が戻り、広島は以前のような活気をまた取り戻しつつあった。

 しかし僕は、以前と全く同じだ。うつろな心を抱えたまま、その中をただふらふらと彷徨っている。明日の見えない身の上だ。


 すると、またも奴が現れた。

 深いシワまみれの浅黒い膚をした小柄な男。真っ黒なサングラスをかけ、ぴかぴかに光ったエナメルの靴を履いている。もっとも、いま着ているのは派手な紫色の上着だが、頭に乗ったあの軽薄なパナマ帽だけは、見間違えようがない。


 周旋屋の源だ。

 焼け跡で僕を拾い、あの島へと連れて行った男だ。そのあと野崎を連れて来て、あんな運命に陥らせた男だ。ただの軽薄なやくざ者にも見えるが、しかしなにかいわく・・・のありそうな男でもあった。


 僕は思わず源の背中を追いかけた。

 本人は追われていることに全く気づいていない。闇市のごみごみした角を曲がったところですぐに追いつき、肩に手をかけた。


「おい!」

 源はびっくりして振り返った。サングラスが鼻の上にずり下がり、細い目をいっぱいに見開いて僕を眺めた。

そして、数秒。思い出したようだ。源は、やっとのことで言った。


「お、おめえは……ああ、あの特攻あがりか」

「ああ、そうだよ。もと伏龍の杉尾だ。ちょっと顔を貸してもらおうじゃないか」

「な、なんでい! 俺様が誰か、わかってものを言ってやがるのか」

「一木組の源、だろ。だから何だよ。単なる女衒ぜげんで、ケチな周旋屋じゃねえか」

「てめえ、言いやがったな!」


 源は凄んでみせたが、その間抜け面は、そう、まるで海底で顔を合わせたウツボにそっくりだった。いかついのは見た目だけで、こちらが手を伸ばせば、すぐにサッと岩陰に隠れてしまう臆病者なのだ。僕は構わず源を、傾いた煉瓦壁に押し付けた。


 激しく問い詰める。

「さあ、教えてもらおうか。僕のことをどこで知った? なぜ狙った? そして野崎をどうやって連れてきた?」

「し、知らねえ、なんのことだ!」

「みんな、わかってるんだぞ! 最初から仕組んでやがったんだ。俺と野崎をあの島へ連れていって、なにかの目的で使おうとしたんだ。さあ、吐け!」

「知らねえ、知らねえよ! あ、いたたた、痛えよ」


 僕は、源の腕を思い切り捻り上げる。ややなまっているとはいえ、かつては特急潜兵として鍛えに鍛えた膂力りょりょくだ。地獄の底からの痛みを伝えてやるかのように、僕は全体重をかけて奴の腕を折りにかかる。


 遂に、源が降参した。

「わ、わかったよ、わかったよ。実は頼まれてやったんだ。さる筋から二人をご指名でな。俺はもう関わりあいたくねえ。どうか許してくれよ!」


「さる筋とはなんだ? えっ? 特高や憲兵隊か? それともなんかの特務機関か?」

「違う、そんなんじゃねえ! もっと、もっと恐ろしい奴らだ。この国で一番おっかない連中だよ」


 これ以上力を込めると腕がぽっきりいってしまうので、やや力は緩めてやったが、そのぶん源の耳元に口を寄せ、大声で聞いてやった。

「だからそれは、いったい、どこのどいつなんだよ!」


 あまりにも源に手応えがなさすぎて、僕はつい慢心してしまっていたらしい。つい後方の警戒を怠っていた。

 ふいにガツンという衝撃を感じ、僕の視界は、まっくらになった。


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