沈黙を破ろうとしたのか、それとも単なる気まぐれか。一羽の鳩が、のそのそと二人の座るベンチの足元に近づいてきた。まるで何かを催促するかのように、田中の靴先をこつん、と軽くつついた。
「おや」
田中は、思わず声を漏らした。鳩は、くりくりとした目で田中を見上げている。餌でももらえると思ったのだろうか。
その、何の変哲もない日常の一コマ。しかし、田中の脳内では、またしても不可解な連想回路が勝手に作動を開始してしまった。「鳩」→「平和の象徴?」→「いや、公園によくいる図々しいやつ」→「何かを要求してくる姿」→「仕事で催促する請求書」…という、常人には到底理解不能な思考プロセスが、一瞬で展開されたのだ。
すると、彼の口が勝手に動いた。
「……鳩ですね。結構、懐っこいというか…図々しいというか……。なんだか、月末の請求書みたいですね。こう、黙って、じっとプレッシャーをかけてくる感じが……いや、別に鳩が悪いわけでは……すみません、変なこと言って……忘れてください……」
言った。言ってしまった。本日最初の、そしておそらく決定的な、超絶ダサい言葉の奔流。
鳩と請求書。
プレッシャー。
お決まりのように、即座の自己否定と謝罪が続く。
空気が、比喩ではなく、物理的に凍ったかのように感じられた。隣に座るみさきの動きが、完全に停止する。公園のざわめきが、遠くに聞こえる。スローモーションのように、彼女の顔がゆっくりとこちらに向けられる。
田中は、息を止めて彼女の反応を待った。罵倒か、軽蔑か、それとも無言の立ち去りか。いずれにしても、これで終わりだ、と覚悟した。
みさきの顔は、まだ色を変えていない。だが、その大きな瞳は、信じられないものを見たかのように、これ以上なく大きく見開かれていた。唇が、微かに震えている。
その直後。
まるで、沸騰したケトルが限界を超えて蒸気を噴き出すように。
あるいは、熟れすぎたトマトが破裂するように。
彼女の顔面が、これまで見たこともないほどの、強烈な、鮮血のような赤色に染め上がった。
ぶわっ、という擬音が聞こえた気がしたほどだ。
それは、単なる赤面ではなかった。耳朶から首筋、いや、見えている範囲の肌という肌が、全て燃えるような赤に変わっていた。羞恥、困惑、衝撃、それに加えて、言葉にしがたい強い感情の奔放な発露。それは、まさに「臨界点」を超えたかのようだった。
「~~~~~~~~~~~~~~っっっ!!!!!!!!」
言葉にならない、甲高い、引き攣ったような息遣いが、彼女の喉から漏れた。彼女は両手で顔を覆い、そのままベンチの上で蹲るように体を丸めてしまった。肩が、小刻みに激しく震えている。
「あ、あ、あの、鈴木先生!? だ、大丈夫ですか!?」
さすがに尋常ではない様子に、田中は狼狽した。本当に気分でも悪くしたのではないか。それほどまでに、自分の言葉は人を不快にさせる力を持っているのか。
「…う、…う……っ……!!」
顔を覆った手の下から、くぐもった声が聞こえる。泣き声のようにも、笑いを必死で堪えている声のようにも聞こえ、判別がつかない。
(ど、どうすればいいんだ!? 救急車を呼ぶべきか!? いや、でも、様子が…)
田中が混乱の極みで右往左往していると、みさきはややあって、顔を覆ったまま、震える声で、しかしはっきりとした言葉を発した。
「…………は、鳩…………請求書…………プレッシャー…………」
その言葉を、反芻するかのように呟いた後、彼女はさらに体を小さく丸めた。
「…あ、あ、あ、ありえない………! その発想………ど、どこから…………!?」
それは、怒りの声ではなかった。むしろ、極度の衝撃と、理解不能なものに対する畏敬の念のような響きすら、微かに含んでいるように田中の耳には聞こえた。
「い、いや、あの、本当に、すみません! 不快な思いをさせて…」
田中が慌てて謝罪すると、彼女は顔を覆ったまま、激しく首を横に振った。
「ち、違……! そういうことじゃ……! な、なんでしょう、この…! 頭の芯が痺れるような…! 背筋が凍るような……それでいて、妙に…妙に………っ!!」
そこまで言って、彼女は再び言葉を詰まらせ、ただただ震え続けた。もはや、田中には、彼女がどのような感情の状態にあるのか、皆目見当もつかない。だが、少なくとも、単純な「怒り」や「嫌悪」ではないことだけは、確信に近い形で感じ始めていた。
この世界特有の「ダサ力」に対する反応。それは、通常の感情表現では説明がつかない、もっと根源的で、生理的な、抗いがたい衝動のようなものなのかもしれない。
静かな木陰のベンチで、蹲って震える美人保育士と、その隣でただただ狼狽する中年男性。公園を行き交う人々から見れば、それは異様極まりない光景に違いなかった。