ぎこちないながらも、ある種の正直さが露呈された空気。田中が、ようやく何かを口にしようとした、まさにその時だった。
「あれー? もしかして、田中課長代理? と、鈴木先生じゃないですかー!」
場違いに明るく、やや馴れ馴れしい声が、すぐ近くから飛んできた。
声の主は、田中の部下であり、自称「経理部のダサ力エース」、佐藤君だった。彼は、フリフリのブラウスを着た若い女性(おそらく、彼の“ダサ力”に惹かれたのであろう)と腕を組み、ニコニコしながらこちらに近づいてくる。
「こんなところで奇遇ですねー! デートですかぁ? ヒューヒュー!」
佐藤君は、悪気はないのだろうが、無神経に囃し立てる。隣の女性も、「まあ! 素敵!」と、特に状況を理解しているわけでもなさそうに、にこやかに相槌を打っている。
「ち、違います! た、たまたま、その…園のことで少し…!」
みさきは、再び顔を真っ赤にして、慌てて否定した。その動揺ぶりは、火に油を注いでいるようなものだが、本人は気づいていない。
田中も、「いや、佐藤君、違うんだ、これは…」と弁解しようとするが、佐藤君は聞く耳を持たない。彼は、みさきに向かって、得意満面の笑みを浮かべた。
「鈴木先生! 実は僕、先生のファンなんですよー! いつも園の前を通るたびに、美人だなぁって思ってて! よかったら、今度僕のとっておきのダジャレ、聞いてくれません? 最近、新しいのができたんですよ!」
彼は、自信満々に胸を張る。
「いきますよ? いいですか? 『最新のAIスピーカーを買ったんだけど、名前が“アレクサ”じゃなくて“アレレ?”だったんだよね! だから、何度話しかけても『アレレ? 何か御用ですか? アレレ?』って言うだけで全然役に立たないの! ……ね? この、微妙な実用性の無さと、語感の悪さ! 最高にダサくないです!?』」
佐藤君は、渾身の作品を披露し終え、ドヤ顔でみさきの反応を待った。隣の女性は、「きゃー! アレレ? ダッサ~い! でも可愛い~!」と、うっとりした表情で拍手している。
田中は、そのダジャレを聞いて、(…まあ、確かに、ダサい…のかもしれないが…彼のは、どこか…狙いすぎているというか、あざとさを感じるな…)と、無意識のうちに分析している自分に気づき、少し驚いた。
肝心のみさきの反応は、というと。
彼女は、佐藤君のダジャレを聞いても、顔色一つ変えなかった。むしろ、その表情は、急速に冷え切り、氷のような無表情へと戻っていた。赤みは完全に引き、眉間には深い皺が刻まれている。
「………………………そうですか」
彼女は、極めて低い、抑揚のない声で、短くそう答えた。明らかに「興味なし」どころか、「不快感」すら滲ませた反応だった。
「え? あ、あれ…? 反応薄い…?」
佐藤君は、予想外の反応に戸惑いの表情を浮かべる。隣の女性も、「えー? すごいダサかったのにー」と不満げだ。
その時、みさきはすっくと立ち上がった。それから、田中の方をちらりと見て、小さな声で、しかしはっきりと聞こえるように言った。
「……田中さん。今日は、ありがとうございました。……その、缶コーヒー、ごちそうさまでした(逆)」
最後の一言は、明らかに照れ隠しのツン成分だが、その表情は硬いままだ。
「あ、いえ、こちらこそ…」
田中が返事をする間もなく、彼女は佐藤君たちには一瞥もくれず、くるりと背を向け、足早に公園を立ち去ってしまった。その後ろ姿は、どこか怒っているようにも、傷ついているようにも見えた。
残されたのは、呆然とする田中と、状況が飲み込めずポカンとしている佐藤君とその連れの女性。
「…あれ? 俺、何かまずいこと言いましたかね…? 鈴木先生、怒ってました?」
佐藤君は、困惑した表情で田中に尋ねる。
「いや……なんというか……」
田中にも、みさきの急な態度の変化の理由は、完全には分からなかった。佐藤君の、あからさまな下心と、狙いすぎたダジャレが不快だったのか? 二人きりの(ある意味で、非常に濃密な)時間を邪魔されたことに対する怒りだったのか? それとも、自分の内なる感情の揺らぎに、再び蓋をしようとしたのか?
ただ、確かなのは、この予期せぬ闖入によって、せっかく生まれかけた何か繊細な空気感が、粉々に打ち砕かれてしまったということだ。
田中は、まだ温もりが残る缶コーヒーを握りしめながら、遠ざかっていくみさきの後ろ姿を、複雑な思いで見送っていた。彼女の不可解な言動、佐藤君の出現、自分自身の内に芽生えつつある未知の感情。全てが絡み合い、彼の心の中は、再び深い混乱の渦へと引き戻されていた。
一体、彼女は何を考えているのか?
そして、自分は、これからどうすればいいのか?
公園の喧騒の中で、田中一郎は一人、立ち尽くす。彼の「昇華」への道は、まだ始まったばかりであり、その道のりは、想像以上に険しく、そして奇妙なものになりそうだ、という予感だけが、確かな重みを持って彼の心にのしかかっていた。
次なる展開は、更なる誤解か、それとも微かな前進か。平熱の男と赤面する天使の、奇妙な物語は、まだ先の見えない、予測不能なカーブへと差し掛かろうとしていた。