公園での一件、そして予期せぬ佐藤君の乱入から数日。田中一郎を取り巻く空気は、微妙に、しかし確実に変化していた。
中堅食品メーカー「株式会社スマイルフーズ」の経理部では、あの日の公園での出来事について、まことしやかな噂が囁かれ始めていた。情報源は、もちろん佐藤君だ。彼は、一部始終(彼が目撃した範囲での、だが)を、得意の「狙いすぎたダサダジャレ」を交えながら、面白おかしく同僚たちに吹聴していた。
「いやー、田中課長代理ったら、あの噂の美人保育士、鈴木先生と公園で密会ですよ! しかも僕が声をかけたら、先生、顔真っ赤にして逃げちゃって! きっと僕の圧倒的なダサ力(ぢから)オーラに当てられちゃったんですね! まさに、『オーラが見えすぎてオーライ!』なんつって! アハハ…あれ? ウケない?」
佐藤君のダジャレは、いつものように女性社員たちの生理的な赤面と微妙な賞賛(?)を引き起こしたが、こと田中と鈴木先生の関係については、皆、半信半疑といったところだった。「平熱の田中さん」と「近所の美人だが超絶不愛想と噂の保育士」という、あまりにもミスマッチな組み合わせに、現実味が感じられなかったのだ。
田中自身は、社内でのそんな噂話など露知らず、ただただ悶々とした日々を送っていた。鈴木みさきの、あの最後の態度が頭から離れない。佐藤君の登場で機嫌を損ねたのは明らかだが、なぜあれほど急に氷のような態度に戻ったのだろうか。去り際に告げられた「…缶コーヒー、ごちそうさまでした(逆)」という、あの不可解なツン発言。あれは一体、どういう感情の表れだったのか。
(やはり、俺のあの意味不明な言葉が、彼女を混乱させ、不快にさせているだけなのかもしれない…)
公園での彼女の告白。「聞いていると…頭が、クラクラして…心臓が、ドキドキして…顔が、熱くなって…抗えない…もっと、聞きたくなってしまうんです…! その…! 理解不能なダサさに…!」という言葉は、確かに衝撃的だった。だが、それは本当に「好意」なのだろうか? ある種の病的症状、あるいは「ダサ力依存症」の初期段階のようなものではないのか?
もしそうなら、自分が無自覚に振りまいている「ダサ力」は、彼女にとって一種の「毒」のようなものなのかもしれない。彼女を苦しめているだけなのではないか。そう考えると、罪悪感にも似た重い気持ちが、田中の胸にのしかかってくる。
だが、同時に、公園で見せた彼女の必死なまでの赤面や、しどろもどろな言い訳、さらには健太の描いた絵に添えられていた小さな赤いハートマーク(あれが彼女のものだと仮定するなら)を思い出すと、単純な迷惑行為とは違う、何か別の可能性も捨てきれない気がした。微かな、しかし無視できない温かい感情。それが、田中をさらに混乱させる。
一方、にじいろスマイル保育園の鈴木みさきもまた、穏やかならぬ日々を送っていた。
公園での田中の「鳩と請求書」発言。あれは、彼女のこれまでの人生で経験したことのないレベルの「衝撃」だった。佐藤君が披露したような、計算された、いかにも「ダサいでしょ?」という意図が見え隠れするダジャレとは、全く次元が違う。田中のそれは、本人が微塵も「ダサい」ことを狙っていない、純度100%の、天然由来の、脈絡なき思考の垂れ流し。だからこそ、その破壊力は凄まじく、彼女の理性を容赦なく揺さぶり、感情の防波堤を決壊させるのだ。
(…なんなのよ、あの人…。鳩を見て、請求書を連想するって…どういう思考回路なの!? しかも、あの全く悪びれない、むしろ困惑してる顔! …っ、思い出すだけで…!)
一人、職員室で報告書を作成しながら、みさきは何度目かの赤面に見舞われ、慌てて手で顔を扇いだ。公園で田中と二人きりで過ごした時間は、気まずさと緊張の連続ではあったが、あの「鳩事件」以降、彼女の中では奇妙な充足感のようなものも芽生え始めていた。もっと彼の言葉を聞きたい、彼の思考の源泉に触れてみたい、という抗いがたい欲求。
けれど、その矢先に現れた佐藤。彼の存在そのものが、みさきにとっては不快だった。チャラチャラした態度、下心見え見えの馴れ馴れしさ、そして何より、田中の「本物」とは似ても似つかぬ、安っぽい「ダサさ」のひけらかし。あれを「ダサい」ともてはやす周囲の人間たちの感覚も、信じられなかった。
(田中さんの、あの…宝石のような(!?)ダサさは、あんな軽薄な男や、世間一般のレベルと一緒にされたくない…!)
そう思った瞬間、みさきはハッとした。宝石? 私、今、あの意味不明な言葉を「宝石」って…? 自分の思考の危険な傾きに、彼女は軽い眩暈を覚えた。田中一郎という存在が、確実に自分の価値観を、そして感情を、コントロール不能な方向へと捻じ曲げようとしている。それが恐ろしくもあり、どこかで期待している自分もいることに気づき、さらに混乱は深まるのだった。
保育園では、あの公園での一件以来、みさきの「ツン」のレベルが明らかに上昇していた。特に、田中や彼の甥である健太に関する話題が出ると、露骨に眉間に皺を寄せ、早口で話を打ち切ろうとする。同僚の保育士たちは、「みさき先生、田中さんのご親戚のこと、よっぽど苦手なのかしらね?」と首を傾げるばかりだった。もちろん、その態度の裏にある複雑な感情など、誰も知る由もなかった。
田中の方も、佐藤君との関係が微妙に変化していた。佐藤君は、公園での一件以来、田中に対して妙にライバル心を燃やしている節があった。
「課長代理、この前の先生、やっぱり課長代理のこと気になってるんじゃないですかー? でも、僕の『アレレ?』ダジャレを聞かせれば、イチコロですよ! ダサさの『格』が違いますから!」
そう言って、昼休みなどに自作のダジャレを披露してくるのだが、田中にとっては、それはただただ騒々しいだけで、みさきがなぜ自分の言葉にだけあれほど強く反応するのか、その謎を深める要因にしかならなかった。
田中一郎と鈴木みさき。二人の間には目に見えない波紋が広がり続け、静かに、しかし確実に周囲をも巻き込みながら、次の大きなうねりへと繋がっていく気配を漂わせていた。