そんな気まずい空気が漂う週の半ば、にじいろスマイル保育園に、一枚の告知ポスターが貼り出された。色画用紙とマジックで手作りされた、いかにも保育園らしい温かみのあるデザイン。しかし、そこに書かれたタイトルは、田中とみさきにとって、まさに青天の霹靂、悪夢の始まりを告げるものだった。
『緊急開催決定! 第一回 にじいろスマイル保育園・親子ふれあいダジャレ発表会 ~届け! キミのダサ力(ぢから)!~』
ポスターには、園児たちが描いたと思われる、シュールな(?)イラストと共に、開催概要が記されている。
「近年、社会的に重要度を増す『ダサ力』。当園でも、子どもたちの健やかなる『ダサ力』育成を目指し、保護者の皆様との交流を深めるべく、親子参加型のダジャレ発表会を開催いたします! 当日は、自慢の『ダサい』ダジャレをご披露いただき、最も心に響く(=ダサい)ダジャレを発表された親子には、『最優秀ダサ力賞』として、豪華(?)景品を進呈! 奮ってご参加ください!」
ご丁寧に、「ダサ力診断センター公認・簡易ダサ力測定器」による審査がある、という注意書きまで添えられていた。
この企画の発案者は、にじいろスマイル保育園の園長、五十嵐(いがらし)ひろみ(50代・女性)だった。彼女は、温厚で子供好きな、典型的な「良い園長先生」に見えるが、こと「ダサ力」に関しては、時代の潮流にどっぷりと浸かりきっている人物だった。テレビの「ダジャレ・キングダム」は毎週録画し、最新の「ダサい」トレンドに精通。自らも時折、園児たちに自作の(そして微妙に古いセンスの)ダジャレを披露しては、子供たちをポカンとさせている、ある意味、この世界の申し子のような存在だった。
「いいですか、皆さん! これからの時代、学力や体力と同じくらい、『ダサ力』は生きていく上で必須の能力なんです! 特に、多感な幼児期に、質の高い『ダサさ』に触れることは、子供たちの情操教育にとっても非常に重要なんですよ!」
職員会議で、五十嵐園長は熱弁を振るった。他の保育士たちは、園長の方針に表立って反対はしないものの、内心では「また園長のダジャレ熱が…」とやや呆れ顔。だが、一人、明確に、かつ激しく反発した人物がいた。
「園長先生! お言葉ですが、そのような企画、私は反対です!」
鈴木みさきだった。彼女は、顔を真っ赤にし(怒りで、だが)、普段の冷静さを失って立ち上がった。
「保育園は、子どもたちが健やかに成長する場所です! 『ダサ力』などという、不確かで、くだらない価値観を、教育現場に持ち込むべきではありません! それに、保護者の方々に、そのような負担を強いるのもおかしいと思います!」
みさきの剣幕に、会議室は一瞬静まり返る。ここまで園長に強く意見する保育士は、彼女くらいのものだ。
しかし、五十嵐園長は、ニコニコとした笑顔を崩さない。
「あらあら、鈴木先生は相変わらず頭が固いわねぇ。でもね、これはもう『くだらない価値観』なんかじゃないのよ。立派な社会現象、いえ、もはや文化なの。それに、保護者の皆さんだって、きっと楽しんでくださるわ。ねえ?」
園長が他の保育士たちに同意を求めると、皆、曖昧に頷くしかない。みさきの主張が正論であることは分かっていても、園長の熱意と、世の中の「ダサ力」ブームの勢いには逆らえない空気があった。
「大体、ダサいダジャレのどこが良いんですか!? 意味不明で、聞いていて不快なだけじゃありませんか!」
みさきは食い下がる。しかし、その言葉を発した瞬間、脳裏に田中の「鳩と請求書」がフラッシュバックし、意図せず顔がカッと熱くなるのを自覚した。不快なだけ…では、ない。自分自身が、その「意味不明」さに、どうしようもなく惹かれているという矛盾。それを指摘されたくない一心で、彼女はさらに語気を強めた。
「とにかく、私はこの企画、教育的見地からも、倫理的見地からも、断固として反対します!」
だが、多勢に無勢。園長の鶴の一声と、他の保育士たちの(やや消極的な)賛成により、「親子ふれあいダジャレ発表会」の開催は、あっさりと決定してしまった。
みさきは、唇を噛み締め、やり場のない怒りと、自らの内なる矛盾に対する嫌悪感で、ただただ俯くしかなかった。
そして、その週末。運命の爆弾は、田中一郎のもとへと届けられた。
ピンポーン、と軽快なチャイムが鳴り、ドアを開けると、そこには妹夫婦と、満面の笑みを浮かべた甥の健太が立っていた。手には、例の発表会の告知ポスターを持っている。
「お兄ちゃん、大変! 健太の保育園で、すごいイベントがあるんだって!」
妹は、興奮気味にポスターを田中に突き出した。
「…親子ふれあい…ダジャレ発表会…?」
田中は、タイトルを見ただけで、全身から血の気が引くのを感じた。嫌な予感しかしない。
「そうなの! でね、健太が、どうしてもおじちゃんと一緒に出たいって言うのよ!」
「えっ!?」
健太が、田中のズボンの裾を掴み、キラキラした目で見上げてくる。
「おじちゃん! ダジャレ、やろー! きんぎょおじちゃんの、あの、へんなやつ、また聞きたい!」
「きんぎょおじちゃんのへんなやつ」。それは紛れもなく、保育園で自分が口走った、あの「金魚」の迷言のことだろう。子供には、あれが「面白い(不思議な)ダジャレ」として記憶されているらしい。しかし、田中にとっては、ただの黒歴史でしかない。
「いや、健太、それは…おじちゃんは、そういうのは苦手で…」
田中は、必死で断ろうとする。人前で、しかも「ダジャレ」を披露するなど、考えただけで胃が痛くなる。ましてや、あの鈴木先生が見ている前で、など…。
「えー! やだー! おじちゃんと出るー!」
健太が、床に転がって駄々をこね始めた。五歳児の全力の駄々は、なかなかに厄介だ。
「お兄ちゃん、お願い! 健太、ずっと楽しみにしてるのよ。それに、こういうのも社会勉強だって。今の時代、『ダサ力』がないと、学校でも会社でも苦労するかもしれないんだから!」
妹も、この世界の価値観を当然のものとして受け入れている。夫(健太の父)も、隣で「そうそう、俺も若い頃はダサ力なくて苦労したからなー。田中さんも、良い機会じゃないですか?」などと、呑気なことを言っている。
「いや、しかし、私は本当に…その…」
田中は、懸命に抵抗する。あの忘年会でのトラウマ。鈴木先生の前で、さらに恥を晒すことへの恐怖。そして何より、「ダサいダジャレを言わなければならない」という、この世界特有のプレッシャー。それは、彼にとって拷問にも等しい。
だが、健太の涙ながらの懇願と、妹夫婦からの「これも甥のため」「今後の社会生活のため」という、ある意味正論(この世界においては)に基づいた説得(という名の圧力)に、彼は徐々に追い詰められていった。
「…わ、分かった…出ればいいんだろ、出れば…」
最終的に、田中は力なく白旗を上げた。疲労困憊、そして絶望的な気持ちで。
その決定を聞いた瞬間、健太は飛び上がって喜び、妹夫婦も安堵の表情を浮かべた。だが、田中は、これから待ち受けるであろう地獄絵図を想像し、ただただ暗澹たる気持ちになるばかりだった。
「にじいろスマイル保育園・親子ふれあいダジャレ発表会」。それは、田中一郎にとって、避けることのできない、公開処刑にも似た試練の舞台となろうとしていた。