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4:氷の仮面の下 ~みさきの揺れる心と、不器用な激励~

一方、鈴木みさきもまた、発表会が近づくにつれて、複雑な感情の波に揺さぶられていた。


表向きは、依然としてこの「親子ダジャレ発表会」に猛反対の姿勢を崩していない。職員室では、「全く、園長も何を考えているのか…」「子どもたちに変な影響がなければいいですけど」と、冷めた口調で批判を繰り返している。


しかし、その内心は、嵐のように揺れ動いていた。


田中一郎が、あの発表会に出場する。


その事実を知った時、彼女の心臓は、期待と不安で大きく跳ね上がった。彼の、あの唯一無二の、脳髄を痺れさせるような「天然ダサ力」を、また聞けるかもしれない、という抗いがたい期待。しかし同時に、それを自分以外の、大勢の人間たちの前で披露されることに対する、奇妙な「嫌悪感」と「独占欲」のような感情も湧き上がってくるのだ。


(田中さんの、あのダジャレ…いや、ダジャレじゃない、あの言葉は…私だけのものなのに…! …って、なんで私がそんなこと!)


自己矛盾に満ちた思考に、みさきは何度も頭を抱えた。


さらに、別の不安もあった。田中が、この発表会のために「無理をしてしまう」のではないか、ということだ。彼が本来、気の利いたことや面白いことを言おうとすると、絶望的にスベることは、過去の忘年会のエピソード(同僚から又聞きした)で知っている。今回も、「ダサいダジャレを言わなければ」とプレッシャーを感じて、空回りしてしまうのではないか。そうなったら、彼は傷つくだろうし、何より、そんな彼の姿を見るのは…辛い。


(…あの人、絶対、今頃すごく悩んでるんだろうな…不器用な人だから…)


そう思うと、いてもたってもいられない気持ちになる。


そんな折、甥の健太が、保育園でみさきにこっそりと耳打ちしてきた。


「みさきせんせい、あのね、おじちゃん、ダジャレの練習してるんだけどね、ぜーんぜん、へんなこと言わないの。『ふとんがふっとんだ』とかばっかり! つまんないの!」


健太の無邪気な報告は、みさきの不安を確信へと変えた。やはり、彼は「ダサさ」を作ろうとして、迷走しているのだ。


(…あの人の魅力は、狙ってないところなのに…! 無理して普通のダジャレなんて言ったら、ただの寒いオジサンじゃない…! それじゃあ、意味ないのに…!)


もはや、彼女の中で、田中一郎の「天然ダサ力」は、守るべき「価値」のようなものに変わりつつあった。それが一般的にどう評価されようと、彼女にとっては特別なのだ。


発表会前日の金曜日。退勤間際、みさきは意を決した。いてもたってもいられない。何か、一言、伝えなければ。いや、伝えたい。


タイミングを見計らい、帰り支度をする田中に電話をかけるべきか、いや、それはあまりにも不自然すぎる。偶然を装って帰り道で待ち伏せ…? それもストーカーみたいで気持ち悪い。


逡巡の末、彼女は一番自然(?)な方法を選んだ。翌日の発表会の最終確認という名目で、健太の保護者である田中一郎に、保育園の事務的な電話をかける、という口実だ。


コール音が数回鳴り、やや緊張した面持ちの田中が電話に出た。


『あ、はい、田中です』

「……あ、あの、にじいろスマイル保育園の、鈴木です」


電話越しでも分かる、みさきの声の硬さ。それを聞いた田中の、一瞬の戸惑いの空気も伝わる。


「……ど、どうも」

「……明日の、親子ダジャレ発表会の件で、最終確認のご連絡です」


みさきは、努めて事務的な口調を装い、持ち物や集合時間などを機械的に伝えた。その間も、心臓は早鐘のように打っている。本題を、どう切り出すか。


一通りの事務連絡が終わる。電話を切る前の、一瞬の沈黙。今しかない。


「…………あの、田中さん」

『…は、はい』

「……明日の件、ですけど……」


みさきは、ごくりと息を呑んだ。


「…………その………む、無理は、しないでください」

『…………え?』

「……別に、誰も、その…田中さんのダジャレに、期待なんかしてませんから! 全然!」


出た。究極のツンデレ。言っていることと、声の震え、そして電話線の向こうにまで伝わってきそうな彼女の必死さが、完全に裏腹だ。


「…だ、だから、変に、気負ったりしないで……いつも通り…というか、まあ、その…普通にしてれば、いいんじゃないですか…? …と、思いますけど…」


「普通に」と言いながら、彼女が本当に求めているのは、彼の「普通ではない」、あの理解不能な言葉であることは、皮肉なことだ。


『……あ…はあ…』


田中は、戸惑いながらも、何かを感じ取ったのかもしれない。電話口の声が、少しだけ和らいだような気がした。


「…で、では! そういうことですので! 失礼します!」


みさきは、一方的に、そして早口にそう告げると、ガチャン!と乱暴に受話器を置いた。


電話を切った後、彼女は、真っ赤になった顔を両手で覆い、大きく息をついた。(……言っちゃった…! 変に思われなかったかな…? でも、これで少しは、あの人も…)


彼女の不器用な激励(?)。それは間違いなく、発表会という嵐の前の静けさの中に投げ込まれた、小さな、しかし確かな波紋だった。彼の「昇華」の物語において、彼女の存在が、単なる翻弄者ではなく、不可解な形での「導き手」にもなり得る可能性を、微かに示唆していたのかもしれない。

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