ついに、運命の「親子ふれあいダジャレ発表会」当日がやってきた。
会場である、にじいろスマイル保育園のホールは、異様な熱気に包まれていた。壁には『打倒!ダジャレ・キングダム!』『目指せ!ダサ力100超え!』など、手作りのスローガンが張り巡らされ、保護者たちは、どこかピリピリとした、それでいて高揚した雰囲気を漂わせている。今日の日のために、秘蔵の「ダサい」ダジャレを練り上げてきた猛者たちだ。その目には、「我が子(と自分のダサ力)こそが一番!」という静かな闘志がみなぎっている。
ステージ脇には、五十嵐園長が満面の笑みで鎮座し、その隣には、この日のためにレンタルされたらしい「ダサ力診断センター公認・簡易ダサ力測定器」なるものが、怪しげな光を放っていた。ピコピコと電子音を発し、時折「ダサ力、上昇中…!」といった合成音声が流れる、いかにも胡散臭い代物だ。
観客席の最前列には、健太が興奮した様子で座り、田中を応援する手作りのうちわ(「きんぎょおじちゃん がんばれ!」と書かれている)を振っている。妹夫婦も、期待と不安が入り混じった表情で見守っている。
一方、田中一郎は、ホールの隅で、生きた心地がしていなかった。胃はキリキリと痛み、手には嫌な汗が滲む。周囲の異様な熱気と、保護者たちの気合の入った視線(自分に向けられているわけではないのだが)に、完全に気圧されていた。
(…どうしよう…何を言えばいいんだ…本当に、何も思いつかない…)
あれから一晩、彼はほとんど眠れなかった。亡き妻の言葉、佐藤君のアドバイス、そして鈴木先生からの謎の激励(?)。それらが頭の中でぐるぐると回り、結局、何の答えも見いだせないまま朝を迎えてしまったのだ。
みさきは、会場の設営や進行の手伝いをしながらも、落ち着かない様子で、時折、ホールの隅にいる田中の様子を窺っていた。その表情は硬く、眉間の皺もいつもより深い。彼女もまた、極度の緊張状態にあるのは明らかだった。
やがて、五十嵐園長の陽気な開会宣言と共に、発表会は幕を開けた。
トップバッターは、佐藤君だった。彼は、なぜか保護者でもないのに「特別ゲスト枠」として、意気揚々とステージに上がった。キラキラしたジャケットを着て、妙な自信に満ち溢れている。
「皆さん、こんにちは! 経理部のダサ力エース、佐藤です! 今日は、僕のとっておきのダジャレで、皆さんの脳髄を痺れさせちゃいますよ!」
彼は、マイクを握りしめ、例の「アレレ?」AIスピーカーのダジャレを、さらに改良(?)したバージョンを披露した。
「最新のAIスピーカー『アレレ?』を買ったら、今度は天気予報を聞いても『アレレ? 今日は晴れ…じゃなくて雨…いや、曇りかも? アレレ?』って言うし、音楽をかけてって頼んでも『アレレ? この曲で合ってますか? え? 違う? アレレ?』って、もう全然使えないの! しかも、たまに勝手に喋り出して『アレレ? 今、誰かおならしました?』とか言うんですよ! 失礼極まりない! ね? この、役に立たないどころか腹が立つレベルの実用性の無さと、聞く者をイラッとさせる語感の悪さ! 最高にダサくないです!? 僕のダサ力指数は、間違いなく90オーバー!」
佐藤君は、ドヤ顔で胸を張る。会場からは、パチパチという拍手と、「まあ、なかなか…」「狙ってる感はあるけどね」といった、やや微妙な反応。一部の熱狂的なダサ力信者(主に若い女性)からは「きゃー! イラッとするけど可愛いー!」「ダサ力92くらいかなー!」といった声も上がっている。ステージ脇の測定器は「ダサ力、88.5…! 更ナル向上ヲキタイ…!」と判定した。
「ちっ、思ったより低いな…」佐藤君は少し不満げだったが、まずまずの評価に満足した様子でステージを降りた。
その後も、保護者たちが次々と登壇し、自慢のダジャレを披露していく。
「うちの息子、レゴブロックが好きでねぇ。『レゴで建てたお城より、君への愛の方がレゴ(れっきと)してるよ!』…なんてね! ハハ…伝わったかな…?」
(測定器:ダサ力 65.3… 標準的ナダササ…)
「聞いてください! この前、娘がね、『パパ、ゾウさんのウンチって、チョコレートの匂いがするの?』って聞いてきたんですよ! 全く関係ないですけど! …って、え? これで終わりですけど何か?」
(測定器:ダサ力 78.9… 脈絡ノ無サガ、光ル…)
「妻が作ったカレーが、あまりにも辛すぎて…いや、もう『辛い』を通り越して、『ツライ』! 人生が! …ごめん、急にネガティブになって…」
(測定器:ダサ力 82.1… 自己否定ニ、更ナル深ミヲ…)
会場は、ダサければダサいほど拍手喝采、という奇妙な盛り上がりを見せる。田中は、それらのダジャレを聞きながら、ますます混乱していた。(…これが、ウケるのか…? 俺には、何が何だか…)
そして、ついに、その時が来た。
「さあ、続きましては、田中健太君のおじさま、田中一郎さんです! どうぞー!」
園長に名前を呼ばれ、田中は、まるで処刑台に向かう罪人のような足取りで、ステージへと上がった。全身はガチガチに硬直し、頭の中は真っ白だ。
スポットライトが眩しい。会場中の視線が自分に突き刺さるように感じられる。健太が「おじちゃーん!」と叫んでいる。妹夫婦が固唾を飲んで見守っている。ステージ袖の暗がりからは、鈴木みさきの心配そうな、それでいてどこか期待を込めたような視線も感じる。
(何か…何か言わなくては…)
マイクを握る手が、小刻みに震える。準備してきた(つもりの)、「布団が吹っ飛んだ」すら、もう思い出せない。焦りと緊張がピークに達し、彼の思考回路は完全にショートした。
「…………あ…………えー………………」
言葉が出てこない。ただ、意味のない母音だけが漏れる。会場が、ざわつき始めた。「どうしたんだ?」「何も言えないのか?」「ダサ力ゼロじゃん…」そんな囁き声が聞こえてくる気がする。
(だめだ…もう、終わりだ…)
田中は、全てを諦め、マイクから口を離そうとした。その瞬間だった。
極度の緊張と混乱状態にあった彼の脳裏に、全く脈絡なく、ある光景が浮かんだ。それは、子供の頃、夏休みに田舎の祖父の家で見た、庭の片隅に置かれた古い水槽で、のっそりと動いていた、一匹の大きな亀の姿だった。
なぜ、今、亀…?
理由は分からない。だが、その亀のイメージが、彼の口を勝手に動かした。思考のフィルターは、もはや機能していない。脳内の断片的なイメージと感情が、そのまま言葉となって流れ落ちる。
「…………あ……すみません…………あの……なんだか…………昔、実家で飼ってた、亀のことを……ふと思い出しまして…………」
会場が一瞬、静まり返る。亀? この状況で?
「…………いや、あの、別に……甲羅が硬いとか、足が遅いとか……そういう、話ではなくて…………」
彼は、しどろもどろになりながら、言葉を続けようとする。何かを説明しようとしているが、自分でも何を言いたいのか分かっていない。
「…………なんというか…………あの…………こう……………急に…………」
言葉に詰まる。沈黙。会場の誰もが、息を飲んで次の言葉を待つ。
「…………………………………にんじんが、食べたくなると言いますか…………………」
にんじん? 亀が?
会場は、水を打ったような静寂に包まれた。数秒間、時が止まったかのように。
田中自身、「しまった、また意味不明なことを…!」と顔面蒼白になる。「亀はにんじん食べないだろ!」という自己ツッコミが脳内で炸裂する。
「…………あ、いや、すみません! 亀は、にんじんなんて食べませんよね! 当然! …いや、もしかしたら食べる種類もいるのか…? すみません、よく知らなくて……! あ、あの、もう、時間ですよね!? ご清聴…いや、お目汚し、失礼いたしました!!」
早口でまくし立て、半ばパニック状態で頭を下げ、逃げるようにステージを降りようとする田中。彼は、完全に大失敗し、会場をドン引きさせてしまった、と思い込んでいた。
しかし、その時だった。
会場の後方から、誰かの、押し殺したような、しかし明らかに感極まった声が上がった。
「……………………ブラボーーーーーーーーーーーーッッ!!!!!!」
それを皮切りに、堰を切ったように、会場全体から、どよめきと、熱狂的な拍手、そして言葉にならない感嘆の声が沸き起こったのだ!
「な、なんだ今の……!? 意味が…意味が全く分からない!!」
「亀とにんじん!? しかも自己否定からの知識の曖昧さ!? 神がかってる!!」
「寒気が…! 寒すぎて鳥肌が止まらない!!」
「これぞ『天然』! 狙ってないからこその破壊力!」
「ダサ力…! ダサ力が…高すぎる!!」
保護者たちは、顔を紅潮させ、目を潤ませ、スタンディングオベーションを送る者までいる。五十嵐園長は、感涙に咽びながら、「素晴らしい…! これこそが、私が求めていた真の『ダサ力』です!」と叫んでいる。
ステージ脇の「簡易ダサ力測定器」は、けたたましいアラーム音と共に、表示パネルを激しく点滅させていた。
『測定不能! 測定不能! ダサ力、限界突破! リミッター解除! DANGER! DANGER! SYSTEM DOWN! SYSTEM DOWN!』
そして、ガシャン!という音と共に、測定器は煙を吹き、完全に沈黙した。
ステージ袖で、その一部始終を見守っていた鈴木みさきは、といえば。
田中が「にんじん」と言った瞬間、彼女は全身の力が抜けるような感覚に襲われ、その場にへなへなと座り込んでしまった。顔は、これまでのどの赤面よりも強烈な、熟れきったリンゴ、いや、噴火直前の火山のような、凄まじい赤色に染め上がっている。
「………………っっっ!!!!!!!!」
両手で顔を覆い、蹲る。耳まで真っ赤になり、首筋には汗が伝う。呼吸は荒く、肩は激しく震えている。羞恥、興奮、衝撃、そして言葉にできない陶酔感。あらゆる感情が、彼女の中で激しく渦巻いていた。
(…………ばか……………なんなのよ、あの人……………亀…………にんじん……………なんで……………そんな………………最高じゃない……………っっ!!!!)
彼女は、もはや正常な思考を保てなかった。田中の「ダサ力」は、彼女の感情のキャパシティを完全にオーバーロードさせ、未知の領域へと引きずり込んでいた。それは、苦しいほどの快感、とでも言うべき、倒錯的な感覚だったのかもしれない。
会場の熱狂と、自らの混乱の渦中で、鈴木みさきは、ただただ震え続けるしかなかった。