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6:祭りのあと、あるいは昇華への微かな光

発表会は、田中一郎の「亀とにんじん」発言が圧倒的なインパクトを残し、ある意味で大成功のうちに幕を閉じた。測定器が故障したため、厳密な「最優秀ダサ力賞」の選定はできなかったが、会場にいた誰もが、田中こそが真のチャンピオンであると認識していた。


田中本人は、ステージを降りた後も、何が起こったのか理解できず、ただただ呆然としていた。会場の異常なまでの熱狂ぶり、園長の涙ながらの賛辞、他の保護者からの握手攻めと賞賛(?)の声。それら全てが、彼にとっては現実離れした出来事にしか思えなかった。


(俺は…褒められているのか…? あの、最低最悪の、意味不明な発言で…?)


混乱は、深まるばかりだった。


発表会が終わり、後片付けも一段落した頃。田中は、人混みを避け、保育園の裏手にある、小さな花壇のそばで一人、ぼんやりと空を眺めていた。健太と妹夫婦は、興奮冷めやらぬ様子で他の保護者たちと談笑している。


(…これから、どうすればいいんだろう…俺のこの「力」は、一体…)


彼は、自分の内に存在する、理解不能な「何か」に、本格的に向き合わざるを得なくなっていることを感じていた。それは、彼が望んだことではなかったが、この奇妙な世界で生きていく以上、無視できない現実となりつつあった。


ふと、背後に人の気配を感じて振り返ると、そこには鈴木みさきが立っていた。いつもの仏頂面に戻ろうと努めているようだが、その頬にはまだ赤みが残り、瞳もわずかに潤んでいるように見える。彼女は、田中から少し距離を置いた場所に立ち、視線を足元のパンジーに落としていた。


「…………お疲れ様でした」


小さな、しかし凛とした声が、夕暮れの静けさに響いた。


「あ…鈴木先生も、お疲れ様でした。色々と、ありがとうございました」


田中は、ぎこちなさを感じながらも、そう返した。


沈黙。気まずいような、それでいて、以前とは少し違う、何か共有された秘密のような空気が、二人の間に流れる。


やがて、みさきが、意を決したように口を開いた。


「…………あの……今日の、ステージ…………」


田中は、身構えた。また何か、厳しいダメ出しをされるのだろうか。


「……………………………………まあ…………その………………………………」


彼女は、言葉を探すように、しばし逡巡する。そして、小さな声で早口ながらも、はっきりと続けた。


「…………………………………………悪くは………なかった………んじゃないですか………?」


究極の、最大級の、ツンデレによる賛辞。


田中は、一瞬、言葉の意味が分からなかった。悪くなかった? あの、自分でも最低だと思った、亀とにんじんの発言が?


「……そ、そうですか…?」


聞き返すと、彼女は顔をさらに赤らめ、慌てて付け加えた。


「べ、別に! 感動したとか、そういうことじゃ、全くありませんから! ただ、まあ…その…なんというか…個性的…? と言えなくもない…かな…って、思っただけです!」


その必死な取り繕い方が、今の田中には、少しだけ、理解できるような気がした。彼女は、自分の言葉に、本当に「何か」を感じているのかもしれない。それが、この世界の特殊な価値観によるものだとしても。


そして、みさきはくるりと背中を向け立ち去ろうとしたが、その去り際に、ほんの小さな声でこう付け加えた。


「……………………………………………でも」


「………あんまり………他の人の前では…………やらないでください……………」


その声には、拗ねたような響きと、確かに、独占欲にも似た感情が滲んでいた。


田中は、その言葉の意味を、まだ完全には咀嚼できないでいた。だが、胸の奥に、これまで感じたことのない、温かくて、少しだけくすぐったいような感情が、確かに広がっていくのを感じていた。


自分の、この理解不能な「才能」。それは、ただ人を混乱させたり、不快にさせたりするだけのものではないのかもしれない。少なくとも、目の前にいるこの不器用な女性の心を、強く揺さぶる何かを持っているのかもしれない。


それが「モテる」ということなのかどうかは、まだ分からない。しかし、この「才能」を通じて、閉ざしていた自分の心が、少しずつ、誰かと繋がり始めているのかもしれない、という予感。


五十二歳、田中一郎。彼の人生は、この奇妙な世界と、一人のツンデレ保育士によって、確実に動き出そうとしていた。それは、「昇華」と呼ぶにはまだささやかすぎる変化かもしれない。だが、彼の灰色だった日常に差し込んだ、確かな光の始まりであることは、間違いなさそうだった。


彼の内なる「ダサ力」は、これから彼をどこへ導くのか? 鈴木みさきとの関係は、どう進展していくのか? そして、この世界の謎は?


平熱だった男の心に灯った微熱は、少しずつ温度を上げながら、次なる奇妙で、そして予測不能な物語の扉を、静かに開けようとしていた。

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