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1:伝説の後日談、あるいは平熱に差す微熱

あの衝撃的な「親子ふれあいダジャレ発表会」から一週間が過ぎた。その余波は静かに、だが着実に田中一郎と鈴木みさきの周囲に波紋を広げ続けていた。


中堅食品メーカー「株式会社スマイルフーズ」の経理部は、かつてないほどの活気に(一部で)満ちていた。話題の中心は、もちろん田中一郎だ。


「聞いた? 田中課長代理、保育園の発表会で伝説作ったらしいよ!」

「簡易ダサ力測定器を破壊したって! まさにゴッド・オブ・ダサ!」

「『亀が急ににんじんを食べたくなる』…意味不明すぎて、逆に芸術的だわ…」


これまで「平熱の田中さん」として、良くも悪くも目立たない存在だった彼は、一躍、社内の(特に女性社員の間での)注目の的となっていた。すれ違いざまに送られる熱っぽい視線。形式的だった挨拶に、妙に含みのある笑顔が添えられるようになった。休憩室でコーヒーを淹れていると、以前は考えられなかった距離まで近づかれ、「あの…田中課長代理のダジャレ…いえ、お言葉? いつか、生で聞いてみたいですぅ…」などと、頬を染めながら囁かれる始末だった。


田中自身は、そんな変化に戸惑うばかりだった。自分に向けられる好意(のようなもの)が、自らの本質ではなく、あの理解不能な「ダサ力」に起因しているという事実。それは、彼にとって素直に喜べるものでは到底なかった。むしろ、自分が何か得体の知れない「見世物」にされているような居心地の悪ささえ感じる。


「おい田中、最近妙にモテてるじゃないか。何かコツでもあるのか? 俺にも教えろよ」

同年代の営業部部長に、揶揄うように肩を叩かれる。

「いえ、私には何も…コツなど…」

「またまた謙遜しちゃって。その『狙ってないのに超絶ダサい』ってのが、今の時代の最強スキルなんだろ? 俺なんか、いくらダサ力セミナーに通っても、せいぜい『あざとい』って言われるのが関の山なのにさ」


部長の言葉は、この世界の奇妙な価値観を改めて田中に突きつける。努力や計算ではなく、無自覚な欠落(としか思えない)が称賛される倒錯。田中は、愛想笑いを浮かべながらも、心の内で深いため息をつくしかなかった。


最も変化が顕著だったのは、自称「ダサ力エース」佐藤君の態度だ。発表会での田中の「天然」の威力を見せつけられた彼は、当初こそ「ま、まあ、あれは事故みたいなもんです! 次は僕が本当のダサさを見せつけます!」と強がっていたが、日に日に田中に対する態度に畏敬の念のようなものが混じり始めていた。


「課長代理…あの『亀とにんじん』…何度反芻しても、深すぎて意味が分かりません…! あれこそ、真の『アビス・ダサネス(深淵なるダサさ)』…! 僕なんて、まだまだ小手先のテクニックに頼っていただけでした…!」


昼休み、佐藤君は田中のデスクにやってきて、目を輝かせながら(少し悔しそうに)語りかけてくる。


「いや、あれは本当に、ただの言い間違いというか、混乱していただけで…」

「いいえ! それが『天然』の証! 狙わないからこその神髄! ああ、課長代理! 僕に、その境地に至るヒントだけでも教えていただけませんか!? 金ならいくらでも…いや、それは冗談ですけど、本気で弟子入りしたい気分です!」

「…遠慮しておくよ」


田中は、うんざりしながらも、佐藤君の熱意を無下にもできず、曖昧に言葉を濁すしかない。もはや、社内で平穏な時間を過ごすことすら難しくなりつつあった。


一方、にじいろスマイル保育園の鈴木みさきもまた、穏やかならぬ日々を送っていた。

発表会での、あの限界突破の赤面と座り込み。あれは、多くの同僚や保護者の前で演じられた、彼女にとっては屈辱以外の何物でもなかった。


「みさき先生、あの時すごかったわねー! まるで茹でダコ!」

「田中さんのお言葉、よっぽど響いたのねぇ。わかるわ、あの破壊力。私もちょっとクラッときたもの」

「もしかして、みさき先生も『ダサ力フェチ』だったりして?」


同僚からの遠慮のない(そして的を射ている)揶揄に、みさきは「なっ…! 違います! 気分が悪かっただけです! あの人の意味不明な言葉は、ただただ不快なだけですから!」と、顔を真っ赤にして(怒りで)反論するが、もはや説得力はない。彼女の「田中一郎アレルギー(と周囲には誤解されている)」は、園内公認の事実となりつつあった。


だが、彼女の内面では、その「アレルギー」とは真逆の感情が、日増しに膨れ上がっていた。


(亀…にんじん……亀…にんじん……)


仕事中、ふとした瞬間に、あの言葉が脳内再生され、その度に心臓が跳ね、顔が熱くなる。不快なはずなのに、どこかでそれを求めている自分。田中の、あの困惑しきった表情、しどろもどろな口調、そしてそこから繰り出される、論理を超越した言葉の奔流。それら全てが、抗いがたい魅力となって彼女を捉えて離さないのだ。


(…ダメだ、私、本当におかしくなってる……あの人のせいで……)


しかし、認めたくはない。認めてしまえば、自分がずっと軽蔑してきた、この世界の「ダサ力信仰」に屈したことになる。プライドが、それを許さない。だからこそ、彼女はますます頑なになり、田中一郎の話題が出ると、氷のような仮面を被り、周囲を凍りつかせるような冷たい態度をとるようになった。


その矛先は、時折、健太にも向けられた。

「健太君、あなたのおじさまのこと、あまり園で話さないように。他の方のご迷惑になりますから」

冷たく言い放つものの、その直後に(健太にだけ聞こえるように)「……それで、おじさま…最近、何か…変なこと、言ってた?」と小声で尋ねてしまう。健太は「へんなこと? うーん、この前テレビ見てて、『このリモコン、ボタンが多いけど、なんだかセミの抜け殻みたいだね』って言ってた!」と無邪気に報告する。その瞬間、みさきの耳が赤く染まるのを、健太は見逃さなかった。


田中もみさきも、発表会の「伝説」によって、否応なく周囲の注目を浴び、自らの内に存在する「何か」と向き合わざるを得なくなっていた。それは、彼らが望んだ変化ではなかったが、二人の関係性を、そして彼ら自身の心を、次なるステージへと押し上げる、静かな、しかし強力な潮流となりつつあった。田中の「平熱」には、明らかにこれまでにない「微熱」が差し込み始めていたのだ。

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