発表会の熱狂から二週間が過ぎた、ある土曜日の午後。田中一郎は、珍しく自宅近くの市立図書館を訪れていた。目的は、経理関連の専門書を探すこと…というのは建前で、本当は、最近の社内外での喧騒から逃れ、一人静かに心を落ち着かせる場所を求めていたからだ。
図書館の、しんと静まり返った空気と、古い紙の匂いは、確かに彼の心をいくらか鎮めてくれた。専門書が並ぶ棚を漫然と眺めながら、彼は自分の現状について改めて考えていた。
(俺のこの力…いや、現象は、一体何なんだろう…? なぜ、ダサいことが、人を惹きつけるのか…?)
この世界の根源的な謎。これまでは「理解不能」と切り捨ててきたが、鈴木みさきとの出会いや、発表会での出来事を経て、無視できない問いとして彼の心に重くのしかかっていた。
(もしかしたら、何か…歴史的な背景や、科学的な根拠があるのかもしれない…)
そんな考えが頭をよぎり、彼はふと、郷土史や民俗学、あるいは心理学のコーナーへと足を向けた。何か手がかりになるような本はないだろうか、と。
様々なタイトルの背表紙を追っていく。古文書、地域の言い伝え、奇妙な風俗習慣…。どれもこれも、彼の求める答えとは直接結びつかないように思えた。諦めて帰ろうかと思った、その時。ふと、書架の隅に、場違いなほど新しい、奇妙なタイトルの本が一冊だけ紛れ込んでいるのに気づいた。
『ダサ力(ぢから)の起源と進化に関する一考察 ~超常言語現象としての可能性~』
著者名は、「Dr. ヘンテコリン」と記されている。ふざけた名前だが、サブタイトルは妙に学術的だ。好奇心に駆られ、田中はそっとその本を手に取った。パラパラとページをめくってみると、難解な専門用語と数式、そして荒唐無稽とも思える仮説が延々と綴られていた。
「…古代シュメール文明の粘土板に記された『エンキ神の鼻歌』とされる解読不能な音節列が、人類最初の『神性ダサ力』の発現である可能性…」
「…特定の音声周波数と脈絡の欠如が、人間の脳幹に存在する未発見の『ダサ力受容体』を刺激し、ドーパミンとセロトニンの異常分泌を引き起こす…?」
「…量子もつれ理論を用いた考察:発話者の『意図しない純粋なスベり』の度合いが高まるほど、聞き手のポジティブ感情誘発確率が指数関数的に上昇する…?」
田中は、眉間に皺を寄せながら読み進めた。(…全く、何を言っているのか…科学のようで、まるでSFだ…)それでも、その荒唐無稽さの中に、ほんのわずかだが、自分の体験と重なるような記述もないわけではなかった。特に、「意図しない純粋なスベり」が重要、という箇所。
(やはり、狙ってやるものではない、ということか…)
夢中になって読み耽っていると、不意に背後から、小さな咳払いが聞こえた。
はっとして振り返ると、そこには、信じられない人物が立っていた。
鈴木みさき。
彼女もまた、オフショルダーの白いブラウスにデニムのロングスカートという、休日の装いだ。手には数冊の絵本を抱えている。驚いたように目を見開き、次の瞬間には、いつものように顔を赤らめ、気まずそうに視線を逸らした。
「…………た、田中さん…? こんなところで…何を…?」
「あ、鈴木先生…! いえ、ちょっと調べ物を…先生こそ、どうしてここに?」
「わ、私は…仕事で使う絵本を探しに…! よく来るんです、ここは静かだから…!」
偶然の再会。それは図書館という、これ以上なく静かで、二人きりに近い状況で訪れた。気まずい沈黙が流れる。他の利用者の、ページをめくる音だけが聞こえる。
田中は、手に持っていた『ダサ力の起源~』の本を、咄嗟に背後に隠した。こんな怪しげな本を読んでいるところを見られたくなかったからだ。
「…そ、そうですか…熱心ですね、先生は」
「……別に、普通です。……田中さんこそ、何をそんなに熱心に…?」
みさきは、田中が隠した本に気づいているのかいないのか、探るような視線を向けてくる。
(何か…何か話題を…!)田中は必死で当たり障りのない言葉を探す。
「い、いや、大したことでは…あの、今日は天気が良いですね! こんな日は、なんだか…」
まただ。口が勝手に動き出す。脳内の連想回路が、不規則に火花を散らす。「天気」→「良い」→「外に出たい」→「でも図書館」→「静か」→「音がない」→「音符?」→「音楽?」
「……なんだか、こう…音符が、全部…どこかへ、家出してしまったような…そんな感じがしますね……あ、いや、すみません、変な例えでした……忘れてください……」
言ってしまった。音符の家出。
図書館の静寂が、先ほどよりもさらに深く、重くなったように感じられた。目の前のみさきが、ぴたりと動きを止める。
(ああ、まただ…また、やらかした…! 今度こそ、軽蔑される…!)
田中は、顔から血の気が引くのを感じ、目を固く閉じた。
だが、予想された罵倒や冷たい視線は、来なかった。代わりに聞こえてきたのは、か細い、引き攣ったような息遣い。
おそるおそる目を開けると、みさきは、両手で口元を強く押さえ、顔を真っ赤にして、肩をわなわなと震わせていた。その大きな瞳は、潤んでキラキラと輝き、信じられないものを見るような、それでいて、何か宝物を見つけたかのような、複雑な光を宿していた。
「~~~~~~~~~っっ!!」
言葉にならない声が、指の間から漏れている。彼女は、田中の目を真っ直ぐに見つめていた。その視線には、もはや羞恥や怒りよりも、もっと強い、抗いがたい「引力」のようなものが感じられた。
「………お、音符が………いえで…………」
震える声で、田中の言葉を反芻する。その瞬間、彼女の瞳から、ぽろり、と一粒の涙がこぼれ落ちた。
「えっ!? す、鈴木先生!? 大丈夫ですか!? やはり、気分が…?」
田中は狼狽し、手を差し伸べようとした。が、みさきは、涙を流しながらも、小さく首を横に振った。
「………ちが……これは……なんていうか……………感銘……?」
「か、感銘!?」
「……その……………不条理の…………極みに…………触れたような…………」
涙は次々と溢れてくるのに、その表情は、どこか恍惚としているようにも見える。
「田中さんの…………言葉は…………どうして…………いつも…………私の、心の…………一番、やわらかい場所を…………抉ってくるんですか………っ!」
それは、悲鳴のようでもあり、愛の告白のようでもあった。
図書館の静寂の中、涙を流しながら田中を見つめる美人保育士と、完全に混乱しきっている中年男性。周りの利用者が、何事かと遠巻きに見ているが、もはや二人の世界だった。
「す、すみません、私には、先生がどうして泣いているのか…」
「…………わからないでしょうね…………あなたには…………それが、また………………罪なんです………!」
みさきは、そう言うと、抱えていた絵本を数冊、バサッと床に落としてしまった。そして、次の瞬間、誰もが予想しない行動に出た。
彼女は、潤んだ瞳で田中を睨みつけると(しかし、その表情は怒りではない)、おもむろに田中の背後に隠されていた『ダサ力の起源~』の本を、素早く奪い取ったのだ。
「あ…!」
「……………!?」
みさきは、その本のタイトルと著者名を見て、一瞬、目を見開いた。Dr. ヘンテコリン…? さらにパラパラと数ページめくり、難解な記述に目を通すと、ますます驚いたような表情を見せた。
「…………あなた…………こんなものを…………?」
その問いかけには、非難の色はなかった。むしろ、何かを発見したような、好奇の色が浮かんでいた。
田中は、どう答えるべきか分からず、ただ立ち尽くす。
みさきは、本を持ったまま、再び田中の顔をじっと見つめた。涙はまだ止まらないが、その表情は、先ほどとは少し違っていた。何か、覚悟を決めたような、それでいて、迷子の子供のような、危うい光が宿っていた。
「…………………………………………田中さん」
「は、はい」
「…………………今度の土曜日」
「……(またか…!)」田中は内心で身構えた。
「……………水族館に…………行きませんか…………?」
「………………………へ?」
予想外の、あまりにもストレートな誘い。おまけに水族館?
「……………子、子どもたちが、行きたがっているとか、そういうことでは、なくて…………」
彼女は、顔を真っ赤にしながらも、しっかりと田中の目を見て続けた。
「…………私が…………あなたと、行きたいんです」
「…………私が…………あなたの、言葉が……もっと、聞きたいんです」
「……………ダメ、でしょうか…………?」
それは、これまでの彼女からは考えられないほど、素直で、不器用で、そして切実な響きを持った「お誘い」だった。ツンは完全に消え失せ、ただ剥き出しのデレ(?)だけがそこにあった。
図書館の静寂。床に散らばった絵本。怪しげな研究書を持つ、涙目の美人保育士からの、まさかの水族館デートのお誘い。
田中一郎の「平熱」は、もはや計測不能な領域へと突入していた。彼の内で「昇華」が始まったのか、それとも単に「混乱」が極まっただけなのか。それは、彼自身にもまだ分からなかった。
ただ、目の前の女性の、潤んだ瞳の奥に揺らめく、複雑で、純粋で、そして抗いがたい引力に、彼もまた、引き寄せられていることだけは、確かな事実だった。