約束の土曜日。田中一郎は、生まれて初めてとも言える「デート」という状況に、極度の緊張を抱えながら、水族館の前に立っていた。服装は、前回公園に行った時と同じ、ベージュのチノパンとグレーのポロシャツ。これ以外に「マシな服」を持っていないのだから仕方がない。
心臓は、発表会の時と同じくらい、いや、それ以上に激しく鼓動していた。相手は、あの鈴木みさきだ。図書館での、涙ながらの衝撃的な告白と誘い。あれは夢ではなかったのだ。
(一体、どうなってしまうんだ…? 今日、俺はまた、何か変なことを口走ってしまうのだろうか…?)
不安が頭をもたげるが、同時に、ほんの少しだけ、期待している自分もいることに気づく。彼女と、もっと話してみたい。彼女のことを、もっと知りたい。そんな、五十二歳にしては青臭い感情が、確かに芽生え始めていた。
待ち合わせ時間ちょうどに、みさきが現れた。今日の彼女は、淡いピンク色のワンピースに、白いカーディガンを羽織っている。髪はサイドで緩く編み込まれ、小さなパールのイヤリングが揺れていた。図書館で見た時よりも、さらに女性らしい、柔らかな印象だ。その姿は、やはり目を奪われるほど美しかった。
「…………おはようございます」
「あ、おはようございます。その…今日は、よろしくお願いします」
ぎこちない挨拶。しかし、みさきの表情に、以前のような硬さはない。むしろ、緊張と期待が入り混じったような、どこか初々しい雰囲気を漂わせている。頬は、ほんのりと上気していた。
「…………行きましょうか」
「は、はい」
二人は、少し距離を置いて、水族館の中へと足を踏み入れた。週末だけあって、館内は家族連れやカップルで賑わっている。色とりどりの熱帯魚が泳ぐ水槽の前、ペンギンがよちよち歩くエリア、巨大なジンベエザメが悠々と泳ぐ大水槽…。
美しい海の生き物たちを前にして、二人の会話は、最初はぎこちなかったものの、少しずつ自然なものになっていった。
「わあ…! この魚、すごい色ですね。絵の具で塗ったみたい…」
「本当ですね。自然の色とは思えないくらい鮮やかだ…」
「ペンギンって、陸の上だと不器用そうなのに、水中だとすごいスピードで泳ぐんですね。なんだか…意外です」
「…ええ、ギャップがありますよね。人も、見た目だけじゃ分からない部分があるのかもしれませんね」
みさきは、普段の保育園での様子からは想像もつかないような、柔らかな笑顔を見せたり、子供のようにはしゃいだりした。田中は、そんな彼女の姿を見るのが、なんだか新鮮で、そして嬉しかった。この人は、いつもツンツンしているわけではないのだ、と。
だが、油断は禁物だった。穏やかな時間が流れれば流れるほど、田中の脳内回路は、奇妙な連想を始めてしまう危険性を孕んでいた。
アシカショーの会場。トレーナーの指示に合わせて、アシカが器用にボールを鼻先で回したり、輪っかをくぐったりしている。観客からは拍手喝采だ。
「すごいですね、アシカって賢いんですね」みさきが感心したように呟く。
「ええ、本当に…。なんだか、見てると…」田中も同意する。と、彼の思考は、アシカの「賢さ」から、「芸達者」→「何でもできる」→「便利」→「でも自分は不器用」→「書類整理」へと、謎のジャンプを始めていた。
「……なんだか、うちの部署の、最新式の高性能コピー機を思い出しますね……。ああいう風に、何でもそつなくこなせたら、いいんですが……いや、別にアシカがコピー機だと言いたいわけでは…すみません、今のは…」
出た。アシカとコピー機。
みさきの動きが、ピタリと止まった。田中は「しまった!」と内心で叫ぶ。せっかく和やかな雰囲気だったのに、また台無しにしてしまった、と。
しかし、みさきの反応は、予想とは少し違っていた。
顔は、確かに赤くなった。だが、以前のような激しい動揺や混乱は見られない。むしろ、口元にうっすらと笑みを浮かべ(ように見えた)、潤んだ瞳で田中をじっと見つめてきた。
「…………コピー機…………ですか」
「あ、いや、あの…!」
「…………ふふっ…………相変わらず、ですね、田中さんは」
笑った? 今、確かに笑った? しかも、楽しそうに?
「い、いえ、笑うところでは…!」
「……いいんです。それが、田中さん、ですから」
みさきは、そう言うと、視線を再びアシカショーに戻した。その横顔は、どこか吹っ切れたような、穏やかな表情をしていた。田中は、その変化に戸惑いながらも、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
(俺のこの言葉は…必ずしも、彼女を苦しめるだけではないのかもしれない…?)
初めて、自分の「ダサ力」が、ポジティブな形で受け止められた(かもしれない)瞬間。それは、田中にとって、小さな、しかし重要な「昇華」への一歩だったのかもしれない。
ショーが終わり、二人は館内のカフェで休憩することにした。窓際の席に座り、イルカの形をしたクッキーが添えられたコーヒーを飲む。
「…あの、田中さん」みさきが、少し改まった口調で切り出した。
「はい?」
「…図書館で、読んでいた本…『ダサ力の起源』でしたっけ…? あれ、どうして読んでたんですか?」
やはり気づかれていたか、と田中は内心で苦笑した。
「…いや、その…最近、自分の言うことが、どうも周りの方…特に、鈴木先生を混乱させているようなので…少しでも、この世界の仕組みというか、理由が分かれば、と…」
正直に答えると、みさきは少し驚いたような顔をして、そしてすぐに俯いてしまった。
「……私の、せい…ですか?」
「い、いえ! 先生のせいだなんて、そんな!」田中は慌てて否定する。「ただ、私自身が、自分のことをよく分かっていないので…何とかしたい、と思っただけで…」
「……………」
みさきは、黙ってコーヒーカップを見つめている。その表情は、読み取りにくい。
「…………あの本、私も少しだけ、気になって、図書館で探してみたんです」
「え?」
「Dr. ヘンテコリン…でしたっけ。少しだけ、読んでみました。……内容は、正直、意味不明でしたけど……」
彼女は、顔を上げて、田中を真っ直ぐに見つめた。
「……でも、一つだけ、引っかかったことがあって」
「…何でしょう?」
「………『ダサ力は、特定の血筋や家系に、遺伝的に受け継がれる傾向がある』…みたいなことが、書いてありましたよね…?」
遺伝? 血筋? そんな記述があっただろうか。田中は全く記憶になかった。
「さあ…どうだったか…あまりちゃんと読んでいなかったので…」
「…………そう、ですか」
みさきは、何かを考え込むように、再び視線を落とした。その横顔には、どこか翳りのようなものが差しているように見えた。彼女が何を考えているのか、田中には見当もつかなかった。
その時だった。
「あれー? みさきじゃーん! こんなところで何してんのー?」
聞き覚えのある、しかし今は聞きたくない、能天気な声。振り向くと、そこには、派手な柄シャツを着た、チャラチャラした雰囲気の若い男が立っていた。腕には、いかにも「ダサ力信者」風の、けばけばしいメイクの女性を連れている。
その男は、鈴木みさきを見るなり、馴れ馴れしく肩に手を置いた。
「久しぶり! 元気してた? 相変わらず可愛いねー!」
みさきの表情が、一瞬で凍りついた。先ほどまでの穏やかな雰囲気は消え失せ、氷のような冷たさと、露骨な嫌悪感が顔に浮かんでいる。彼女は、男の手を乱暴に振り払った。
「……触らないで、木村君」
「おいおい、冷てーなー! せっかく再会したんだからさー!」
木村と呼ばれた男は、ヘラヘラと笑っているが、その目には下卑た光が宿っている。
「そっちのおじさんは誰? みさきの新しい彼氏? へー、年上好きだったんだ? それにしても、なんか…地味じゃね? ダサ力とか、あんの?」
失礼な視線が、田中に向けられる。田中は、どう反応すべきか分からず、黙っているしかない。
「あなたには関係ないでしょ! 行くわよ!」
みさきは、田中を促そうとするが、木村は行く手を遮るように立ち塞がる。
「まあまあ、そう邪険にすんなって。俺さ、最近ダサ力キングダムの予選、通過したんだぜ? すごいだろ? 今度テレビ出るから、絶対見ろよな!」
木村は、自慢げに胸を張る。
「今日の俺のダジャレ、聞いてく? 超自信作! 『カブトムシがさー、カブに乗ってバイトに行く途中、カバンを忘れたことに気づいて、カーブで急ブレーキかけたら、株価が大暴落しちゃった! …なんつってな! ヤバくね? この連想の飛躍!』」
連れの女性は、「きゃー! 株価暴落! ダッサー! でも最高ー!」と、甲高い声で騒いでいる。
田中は、(…確かに、単語は詰め込んであるし、無理矢理感はあるが…やはり、どこか計算が見えるな…佐藤君と同系統か…?)と冷静に分析している自分に気づいた。
みさきの反応は、佐藤君の時と同じだった。完全に無表情。いや、それ以上の、侮蔑に近い冷たい視線を木村に向けている。
「…………………………………くだらない」
吐き捨てるように言うと、彼女は木村を押し退け、田中の腕を掴んだ。
「行きましょう、田中さん!」
その力は、意外なほど強かった。田中は、なされるがままに、彼女に引っ張られるようにしてカフェを出た。背後から、木村の「おい! なんだよ、あの態度!」という怒鳴り声と、連れの女性の「振られちゃったねー、ドンマーイ」という声が聞こえてきた。
水族館の出口に向かう途中、みさきは田中の腕を掴んだまま、俯いて黙り込んでいた。その肩は、わずかに震えている。
「…あ、あの、鈴木先生…?」
「………………すみません」
小さな声で呟いた。
「…あんな、嫌な奴に、絡まれて……田中さんにも、不快な思いをさせてしまって……」
「い、いえ、私は別に…それより、先生は大丈夫ですか? あの男は…?」
「…………昔の…知り合い、です。もう、関わりたくない相手……」
彼女の声には、深い嫌悪と、何か別の、隠された感情が滲んでいるように聞こえた。図書館で見せた、翳りのようなものと、何か関係があるのだろうか?
「ダサ力キングダム」に出るような男。計算されたダサさをひけらかす男。みさきが、心底嫌悪するタイプ。だが、ただそれだけではないような気がした。
二人の間に、再び重い沈黙が落ちる。水族館デート(?)は、予期せぬ闖入者によって、後味の悪い形で終わりを告げようとしていた。
しかし、この出来事が、二人の関係に、そして田中の「昇華」に、新たな、そして予測不能な展開をもたらすことになるのを、この時の二人はまだ知らなかった。忍び寄る影は、過去の因縁か、それとも未来への波乱の序章か。物語は、さらに複雑な様相を呈し始めていた。