水族館での一件以来、田中とみさきの間には、再び微妙な距離感が生まれていた。デート(?)のような時間を過ごし、互いに少しだけ心を開きかけたかに見えたが、あの木村という男の出現が、水を差した形だ。
田中は、みさきがあの男に見せた露骨な嫌悪感と、その後に見せた翳りの理由が気になっていた。彼女が抱える何か、触れてはいけない過去があるのではないか。そう思うと、迂闊に踏み込めない気がした。
みさきの方も、田中に自分の過去(らしきもの)の断片を見られてしまった気まずさと、木村のような存在を田中と同じ空間に晒してしまった罪悪感のようなものから、どこか田中を避けている節があった。保育園で顔を合わせても、挨拶はするものの、すぐに視線を逸らし、足早に去ってしまう。健太への「おじさまの様子は?」というこっそりとした質問も、めっきり減っていた。
そんな中、田中は再び、あの奇妙な本、『ダサ力の起源と進化に関する一考察』のことを思い出していた。図書館でみさきが指摘した、「遺伝」に関する記述。あれが妙に頭に引っかかっていたのだ。
(もし、この「ダサ力」が遺伝するなら、俺のこの力は、親から受け継いだものなのだろうか…? 亡くなった父や母は、特にダジャレがダサかった記憶はないが…)
あるいは、もっと古い先祖に、自分と同じような「才能」の持ち主がいたのだろうか? そして、亡き妻は…彼女はこの力のことをどう思っていただろう? 妻には子供がいなかった。もし、子供がいたら、その子にもこの力が遺伝したのだろうか…?
考え始めると、疑問は次から次へと湧いてくる。田中は、もう一度あの本をちゃんと読んでみようと思い、会社の昼休みにこっそりとネットで検索してみた。「Dr. ヘンテコリン」「ダサ力の起源」。
すると、驚くべきことに、その怪しげな著者の個人ブログのようなものがヒットした。デザインは手作り感満載で、内容はさらに怪しさが増している。最新の投稿は、「緊急警告! ダサ力インフレーションの加速と、それに伴う『虚無ダサネス』の出現について!」といった、意味不明なタイトルだった。
ブログのプロフィール欄には、著者の簡単な経歴が記されていた。
「Dr. ヘンテコリン(本名:辺手古 倫太郎 へんてこ りんたろう)。元・東々大学超常現象言語学研究室所属。ダサ力研究の第一人者を自称するも、学会からは異端視され、現在は在野の研究者として活動中。趣味は、スプーン曲げと未確認飛行物体の観察」
(…やはり、相当変わった人物のようだ…)田中は、ますます胡散臭さを感じながらも、ブログの過去記事を遡ってみた。そこには、「ダサ力とフェロモンの関係性」「ダサいダジャレによる脳波の変化パターン分析」「歴史上の偉人たちの隠されたダサ力エピソード集」など、興味深い(?)テーマが並んでいる。
そして、ある記事に目が留まった。
『「無ダサ力症候群(Anosodasia)」の実態と、彼らが抱える苦悩について』
「無ダサ力症候群」。それは、この世界の奇妙な法則に反応しない、いわば「ダサさを感じない」人々を指す言葉だ。田中は、この言葉を聞いたことはあったが、具体的にどのような人々で、どんな生活を送っているのかは知らなかった。
記事を読み進める。
「…彼らは、周囲の熱狂に共感できず、しばしば『感性が鈍い』『ユーモアが分からない』と誤解され、社会的な疎外感を抱えやすい。恋愛市場においては、ダサ力による魅力の指標が機能しないため、従来の(古風な)魅力…例えば、容姿、経済力、性格、知性などが重要となるが、ダサ力が支配的な現代社会においては、それらが評価される機会自体が少ない…」
「…興味深いことに、一部の無ダサ力症候群の当事者からは、『他人の“本物のダサさ”には反応しないが、“計算された偽物のダサさ”に対しては、強い嫌悪感を覚える』という証言も得られている…」
偽物のダサさへの嫌悪感。田中は、ふと鈴木みさきのことを思い出した。彼女が、佐藤君や木村のような「狙ったダサさ」を見せる人物に対して、露骨な嫌悪感を示すのは、もしかしたら…?
いや、まさか。彼女は、自分の「天然ダサ力」には、あれほど強く反応するのだ。無ダサ力症候群であるはずがない。
この記事を読んだ田中は、この世界の「もう一つの側面」に思いを馳せずにはいられなかった。大多数が熱狂する「ダサ力」に共感できず、静かに生きる人々。彼らは、この奇妙な世界を、どう見ているのだろうか。
その週末、田中は妹夫婦の家に呼ばれ、夕食を共にしていた。健太が、保育園での出来事を興奮気味に話している。
「あのね、今日、みさき先生のね、お友達が保育園に来たんだよ!」
「へえ、どんな人だったんだい?」妹が尋ねる。
「すっごく綺麗な女の人! でもね、みさき先生と全然違うの!」
「どう違うんだ?」
「みさき先生は、僕がおもしろい(?)ダジャレ言うと、顔真っ赤にするでしょ? でも、その人はね、全然笑わないし、赤くもならないの! 『ふーん』って言うだけ! つまんないの!」
健太は不満げだが、田中はその話を聞いて、ドキッとした。赤くならない? みさきの友人が?
「その人、なんていう名前だったんだい?」田中は、何気ないふりをして尋ねた。
「えっとねー、確か…『れいか先生』って呼ばれてた!」
れいか。綺麗な女の人。みさきの友人で、ダサいダジャレに反応しない。
田中は、Dr. ヘンテコリンのブログにあった「無ダサ力症候群」の記事を思い出していた。もしかしたら、その「れいか先生」は…? そして、みさきが心を許す友人の中に、自分とは全く違う感性を持つ人がいるという事実は、田中の心に新たな疑問符を投げかけた。みさきは、その友人と、どんな話をしているのだろうか。「ダサ力」について、どう語り合っているのだろうか。
数日後のことだった。会社の帰り道、田中は駅前のカフェで一人、コーヒーを飲んで考え事をしていた。すると、偶然にも、カフェの窓際の席に、見覚えのある女性が一人で座っているのに気づいた。
息を呑むほどの、知的で涼やかな美貌。どこかミステリアスな雰囲気を漂わせている。健太が言っていた、「れいか先生」に違いない。彼女は、難しい顔でタブレット端末を操作している。
田中は、一瞬ためらった。しかし、何か、確かめたい衝動に駆られた。意を決して、彼女のテーブルに近づき、声をかけた。
「あ、あの…失礼ですが、先日、にじいろスマイル保育園にいらっしゃいませんでしたか?」
れいか、と呼ばれていた女性は、驚いたように顔を上げ、田中を見つめた。その瞳は、感情の色が読めない、静かな湖面のようだ。
「…………どちら様でしょうか?」声もまた、落ち着いていて理知的だ。
「あ、申し遅れました。田中一郎と申します。甥の健太が、いつもお世話になっておりまして…」
「ああ…健太君のおじさまの。鈴木から話は聞いています」
彼女は、そう言うと、わずかに口元を緩めた。敵意はないようだ。田中は、少し安堵しながら、向かいの席に座っても良いか尋ね、許可を得て腰を下ろした。
「鈴木、というのは、鈴木みさき先生のことですよね?」
「ええ。彼女とは、学生時代からの友人です」
れいかと名乗る女性――正確には、藤堂 怜花(とうどう れいか)という名前だった――は、自分がフリーランスの翻訳家であり、時々、ボランティアで保育園の英語教育の手伝いをしていることを教えてくれた。
しばらく当たり障りのない会話が続いた後、田中は、核心に触れる質問を投げかけてみた。
「…あの、失礼なことをお伺いしますが…藤堂さんは…その…いわゆる『ダサいダジャレ』というものに、あまり興味がない…とか?」
怜花は、その質問に、少し驚いたような、それでいて「やはり来たか」といったような、複雑な表情を見せた。
「…………興味がない、というよりは……反応、できない、と言った方が正しいでしょうか」
彼女は、静かに、しかしはっきりと答えた。
「私は、おそらく、世間で言うところの『無ダサ力症候群』なのだと思います」
やはり、そうだったか。田中は、ゴクリと喉を鳴らした。
「…そうでしたか。実は、私も…この世界の風潮には、あまりついていけていない方でして…」
「まあ…田中さんは、少し…特殊なケースのようですが」怜花は、意味深な笑みを浮かべる。「みさきから、あなたの『お言葉』については、色々と…聞かされていますので」
田中は、顔が熱くなるのを感じた。みさきは、親友である彼女に、自分のことをどう話しているのだろうか。
「……みさきのこと、驚かれたでしょう?」怜花は、少し寂しげな目で、窓の外を見ながら続けた。「あの子、昔は、誰よりもダサいダジャレを馬鹿にして、嫌っていたのに……まさか、あなたの言葉にだけ、あんな風に反応するようになるなんて…」
「昔は、嫌っていた…?」
「ええ。それはもう、蛇蝎(だかつ)のごとく。特に、『狙ってダサいことを言おうとする』人間を、心底軽蔑していました。……理由、ですか?」
怜花は、一瞬ためらった後、重い口を開いた。
「………あの子の……父親が……………そうだったんです」
父親? 鈴木先生の?
「…………昔、少しだけ人気があった、お笑い芸人でした。でも、才能はなくて…世間の『ダサ力ブーム』に乗っかろうとして、必死で、計算ずくの、寒いダジャレばかりを連発していた。家でも、テレビでも。……みさきは、そんな父親の姿を見るのが、たまらなく嫌で、恥ずかしくて………『あんな風にだけはなりたくない』と、ずっと言っていました」
衝撃の事実だった。みさきの、あの頑なまでの「ダサ力嫌悪」の根底には、そんな過去があったのだ。父親への嫌悪と、世間への反発。
「だから、私も最初は信じられませんでした。あのみさきが、男性の、それも『超絶ダサい』言葉に惹かれるなんて。しかも、あなたのそれは…父とは真逆の、『計算のない、天然のダサさ』……それが、あの子にとって、何か特別な意味を持ってしまったのかもしれません」
怜花は、田中を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、親友を心配する色と、田中という存在への純粋な好奇の色が浮かんでいた。
「…………田中さん。あなたに、お願いがあります」
「…何でしょうか?」
「…………みさきのことを…………あまり、振り回さないでやってください。あの子は、見た目よりずっと不器用で、脆いところがあるんです。あなたの『力』は、あの子にとって、劇薬のようなものかもしれない」
それは、忠告であり、懇願でもあった。
田中は、怜花の言葉を、重く受け止めた。自分の無自覚な力が、知らず知らずのうちに、一人の女性の過去の傷に触れ、その心を激しく揺さぶっている。その事実に、彼は改めて、責任のようなものを感じずにはいられなかった。
怜花との出会いと告白。それは、田中一郎に、鈴木みさきという人間の、これまで知らなかった側面を見せ、同時に、彼自身の「力」の持つ意味と影響力を、より深く考えさせるきっかけとなった。
「昇華」への道は、単純な恋愛感情の芽生えだけではない。他者の痛みを知り、自らの力と向き合う、複雑で、そして苦悩に満ちたプロセスでもあるのかもしれない。物語は、新たな登場人物と、明かされた過去によって、より深みと陰影を増していく。