「秋の味覚を楽しむ会」での「鉛筆の旅立ち」事件は、田中とみさきの関係を、微妙ながらも確実に変化させた。田中は、無理に自分を抑え込むことをやめ、みさきは、田中の「ダサ力」への反応を隠す(あるいは、堪える)のを諦め、ある種の「受容」の境地に達しつつあった。もちろん、表向きのツンとした態度は健在だが、以前のような拒絶や混乱ではなく、むしろ「仕方ないわね、この人は…」といったような、呆れと親しみが混じった空気を漂わせるようになった。
そんな変化が訪れてから数週間後、ある金曜日の夜。
田中は、会社からの帰り道、夜空を見上げていた。冬が近づき、空気は澄み渡り、星が綺麗に見える。ふと、彼は健太から聞いた話を思い出していた。「みさき先生ね、星を見るのが好きだって言ってたよ! プラネタリウムとか、よく行くんだって!」
星…プラネタリウム…鈴木先生…。
彼の心の中に、一つの考えが浮かんだ。自分から、誘ってみる…? これまで、いつも受け身だった。彼女からの不器用な誘いに応じるばかりだった。でも、もしかしたら、自分から行動を起こすべき時なのかもしれない。怜花さんには「振り回さないで」と言われたが、これは「振り回す」ことにはならないだろう…多分。
彼は、深呼吸を一つすると、ポケットからスマートフォンを取り出し、震える指で、にじいろスマイル保育園の電話番号ではなく、以前、緊急連絡用に教えてもらっていた(そして一度も使っていなかった)みさきの携帯電話の番号を呼び出した。
コール音が、やけに長く感じられる。留守電になる寸前、少し慌てたような声で、彼女が電話に出た。
『…は、はい、鈴木です』
「あ、こんばんは、田中です。夜分にすみません」
『……田中さん? どうかしましたか? 健太君に何か?』声に、緊張が走る。
「い、いえ! 健太は元気です。そうではなくて…あの…」
田中は、言葉を選びながら、慎重に切り出した。
「…実は、今度の日曜日、駅前に新しくできたプラネタリウムに行ってみようかと思っているのですが…もし、ご都合がよろしければ、鈴木先生も、ご一緒にいかがかな、と…」
自分でも驚くほど、スムーズに言葉が出てきた。いや、スムーズすぎたかもしれない。もっと、ダサい言い方の方が良かったのだろうか…? などと、余計な心配をしてしまうあたりが、彼らしい。
電話の向こうで、長い沈黙があった。息を呑む音が聞こえた気がする。
『…………………プラネタリウム、ですか?』
「は、はい。星がお好きだと、健太から聞きまして…もし、ご迷惑でなければ…」
『………………………………』
また沈黙。やがて、聞こえてきたのは、小さな、しかし明らかに嬉しそうな、そして照れくさそうな声だった。
『…………………………ご迷惑、では、ない、ですけど…………』
「! では…!」
『…で、でも! わ、私と二人きりなんて、田中さん、つまらないんじゃないですか!? きっと、すぐに眠くなっちゃいますよ! 私の話、全然面白くないですし!』
いつもの、ネガティブな自己弁護。だが、その声色は、明らかに「行きたい」と叫んでいる。
田中は、思わず、小さく笑ってしまった。
「そんなことありませんよ。先生とお話しできるなら、私は、嬉しいです」
柄にもなく、ストレートな言葉が出てしまった。これも、昇華、なのだろうか。
『…………………………っ!』
電話の向こうで、彼女が再び息を呑む気配。ややあって、決心したような、しかし震える声で答えた。
『………………………わかり、ました……………』
「! 本当ですか!」
『………………………日曜日…………プラネタリウムで…………お待ちしてます…………』
「は、はい! 楽しみにしています!」
『…で、では! し、失礼します!』
ガチャン! いつものように、一方的に電話は切られた。
しかし、田中は、スマートフォンを握りしめながら、満天の星空の下で、言いようのない高揚感と、胸の奥から込み上げてくる温かい感情に包まれていた。
初めて、自分から誘った。そして、受け入れてもらえた。
五十二年間、平熱で生きてきた彼の心に、今、確かに熱い何かが灯っている。
だが、物語は、そう簡単にハッピーエンドへと向かうことを許してはくれない。
その頃、鈴木みさきの元には、一本の非通知設定の電話がかかってきていた。無視しようとしたが、何度も何度も執拗にかかってくるため、根負けして応答する。
『……もしもし?』
『……よぉ、みさき。久しぶりだな』
電話の主は、彼女が最も聞きたくない声の持ち主だった。水族館で遭遇した、あの木村だ。
『!? なんで、私の番号を…!』
『まあ、ちょっとしたコネでな。それより、聞いたぜ? 今度の日曜、あの地味なオッサンとプラネタリウムだって? へぇー、意外だな、お前も隅に置けねぇな!』
下卑た笑い声が、電話口から響く。
『あなたには関係ないでしょ! もう切るわ!』
『まあ待てよ。お前、あのオッサンの「ダサ力」にやられちまってるんだろ? 分かるぜ、あの「天然」モノは、ある意味、麻薬みてぇなもんだからな』
『…………!』
『でもな、みさき。お前、忘れたわけじゃねぇだろうな? お前の親父のこと。そして、俺がお前の親父に、昔どれだけ世話になったか(利用されたか)ってことを』
木村の声色が、急にドスを利かせたものに変わる。
『あのオッサンに入れあげるのもいいが、お前の過去と、俺たちの間の『貸し借り』は、チャラになったわけじゃねぇんだぜ? ……なあ、そうだろ?』
みさきは、電話口で、血の気が引いていくのを感じていた。忘れたくても忘れられない、父親の影。そして、その父親が残した、負の遺産とも言える人間関係。それが、今、最も幸せな予感に満ちている瞬間に、再び彼女の前に立ちはだかろうとしていた。
『………日曜日、楽しみにしてるぜ。プラネタリウム……二人っきりで、なんてさせねぇよ?』
電話は、一方的に切られた。
みさきは、スマートフォンを握りしめたまま、その場に立ち尽くす。ようやく掴みかけた、田中との穏やかな時間。それが、またしても、過去の亡霊によって脅かされようとしている。
田中一郎と鈴木みさきの、星空の下でのささやかな約束。それは、二人にとって大きな一歩であると同時に、新たな、そしてより深刻な嵐の始まりを告げるものなのかもしれなかった。
加速する赤面スパイラルと、深まる世界の謎、そして忍び寄る過去の影。平熱の男の「昇華」の物語は、予測不能な急カーブへと、さらに大きく舵を切ろうとしていた。