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1:プラネタリウム前夜 ~不器用な決意と揺れる心~

田中一郎からの、まさかのプラネタリウムへの誘い。その電話を切った後も、鈴木みさきの心臓は激しい鼓動を止められずにいた。顔は火照り、手は微かに震えている。五十二歳の、しがない(と本人は思っている)経理部員。世間の基準で見れば、決して「モテる」タイプではないはずの男。しかし、彼の放つ、あの抗いがたい「天然ダサ力」と、時折見せる不器用な優しさが、みさきの心を掴んで離さない。


(プラネタリウム……私が行きたいって言ったの、健太君、ちゃんと覚えてて、田中さんに話してくれたんだ……)


その事実だけで、胸がきゅんと締め付けられるような、甘酸っぱい感覚が込み上げてくる。田中が、自分の言葉を覚えていて、しかも、彼の方から誘ってくれた。それは、これまでの人生で経験したことのない、特別な出来事だった。


しかし、その高揚感は、直後に襲ってきた木村からの電話によって、奈落の底へと突き落とされた。


『日曜日、楽しみにしてるぜ。プラネタリウム……二人っきりで、なんてさせねぇよ?』


あの下卑た声、脅迫めいた言葉。忘れようとしていた過去の亡霊が、最も触れられたくないタイミングで、再びその醜い姿を現したのだ。


(どうして…? なんで今さら……! 田中さんとのこと、どこで知ったの…?)


怒りと恐怖、そして深い絶望感が、みさきの心を支配する。父親が遺した、不名誉な人間関係の残滓。それは、人気取りのために計算された「ダサさ」を振りまき、周囲を利用し、そして最後は借金を抱えて蒸発同然にいなくなった父親自身の姿と重なり、みさきにとってはトラウマそのものだった。木村は、そんな父親に取り入っていた一人で、父の失踪後も、何かにつけてみさきに金の無心や嫌がらせをしてくる、忌むべき存在だったのだ。


(田中さんには…絶対に、迷惑はかけられない……あんな奴のこと、知られたくない……)


そう思う一方で、約束を断ることも、もはやできなかった。田中の、あの嬉しそうな声。それを裏切ることなど、考えたくもない。


(…どうすれば……? でも、行きたい……田中さんと……)


みさきは、複雑な感情の渦の中で、一人、眠れない夜を過ごした。窓の外には、冬の星々が静かに瞬いている。その輝きが、今はただ、不安を掻き立てるだけだった。


一方、田中一郎もまた、柄にもなく落ち着かない夜を過ごしていた。生まれて初めて、自分から女性をデートに誘ったのだ。相手は、あの複雑で魅力的で、そして自分を激しく翻弄する鈴木みさき。


(断られなくて、よかった……)


素直な安堵感と、同時に襲ってくる不安。


(何を話せばいいんだ? プラネタリウムで、また変なことを口走ったらどうしよう…? 星を見て、「あの星、なんだか押し入れの奥で見つけた古い梅干しみたいですね」なんて言ったら、今度こそ本気で嫌われるだろうな…)


そんな具体的な心配をしてしまう自分に、苦笑する。だが、以前と違うのは、その不安の中に、ほんの少しだけ、「それでもいいのかもしれない」という感覚が混じっていることだ。「鉛筆の旅立ち」事件以来、彼は、自分の「ダサ力」が、必ずしもマイナスなだけではないのかもしれない、と感じ始めていた。少なくとも、みさきにとっては、それが「何か」特別な意味を持つらしい、と。


(無理に普通を装うのはやめよう。でも、無神経にならないように気をつけなければ。彼女を、傷つけないように…)


それは、彼の「昇華」の、一つの形だった。無自覚な力をコントロールすることはできない。だが、その力と向き合い、相手への配慮を持って接すること。それは、平熱だった男が、人間関係の「熱」を学び始めた証でもあった。


クローゼットを開け、数少ない「マシな服」を改めて眺める。やはり、チノパンとポロシャツ、あるいはセーターくらいしか選択肢はない。


(もう少し、ちゃんとした服、買うべきだろうか…?)


亡き妻が買ってくれたネクタイを手に取り、ふと彼女の笑顔を思い出す。(君がいたら、何て言うかな…? 「あらあら、お父さん、珍しくおめかし?」なんて、笑うかな…)


田中は、亡き妻への想いと、みさきへの新たな感情の狭間で揺れながら、それでも、確かに未来へと一歩踏み出そうとしていた。星空の下の約束。それは、彼の止まっていた時間を、再び動かすための、小さな、しかし確かなエネルギーとなりつつあった。

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