日曜日の午後。プラネタリウム「ギャラクシア・ドーム駅前」のエントランスは、最新の設備と洗練されたデザインで、多くの来場者で賑わっていた。田中は、約束の時間の十分前に到着し、やや緊張した面持ちで壁に映し出される宇宙の映像を眺めていた。
やがて、人混みの中から、ひときわ目を引く姿が現れた。鈴木みさき。
今日は、ネイビーの落ち着いたワンピースに、柔らかなアイボリーのカーディガンを羽織っている。首元には、小さな星のモチーフのネックレスが控えめに光っていた。いつもより少し丁寧に化粧が施された顔は、緊張と期待でほんのり上気し、大きな瞳は潤んでいるように見える。
「…………こんにちは、田中さん」
「あ、こんにちは、鈴木先生。お待たせしました」
互いにぎこちない挨拶を交わす。田中は、彼女の服装と、首元のネックレスに気づき、(ああ、やっぱり、星が好きで、今日のことを楽しみにしてくれていたんだな)と、胸が温かくなるのを感じた。
「いえ、私も今来たところですから…」
みさきは、視線を微妙に逸らしながらも、その声には隠しきれない嬉しさが滲んでいる。木村の影は、今はその表情からは窺い知れない。
チケットを購入し、ドーム型のシアターへと向かう。内部は、緩やかな傾斜のある座席が並び、中央には巨大な投影機が鎮座していた。二人は、少し後方の、隣り合った席を選んで腰を下ろした。
上映開始まで、まだ少し時間がある。周囲のざわめきの中、二人の間には静かな、しかし心地よい緊張感が漂っていた。
「…プラネタリウム、久しぶりですか?」田中が、当たり障りのない話題を振る。
「はい…子供の頃、父に一度だけ連れてきてもらったことがあって…でも、それ以来…」
父、という言葉に、みさきの表情が一瞬だけ曇ったのを、田中は見逃さなかった。だが、すぐに気を取り直したように、続けた。「大人になってからは、なかなか機会がなくて…だから、今日、誘っていただけて、すごく…嬉しいです」
素直な言葉。その変化に、田中は少し驚き、そして、やはり嬉しさを感じた。
やがて、場内アナウンスが流れ、照明がゆっくりと落とされていく。ドーム全体が暗闇に包まれ、息を呑むような満天の星空が広がる。無数の星々、天の川の淡い光、遠い星雲の神秘的な輝き…。
「うわぁ…………」
思わず、二人の口から、同時に感嘆の声が漏れた。それは、計算も、照れもなく、ただ目の前の美しさに心を奪われた、純粋な反応だった。
優しいナレーションと共に、星座の解説が始まる。冬の大三角、オリオン座、すばる…。壮大な宇宙の物語が、美しい映像と共に語られていく。隣に座るみさきの横顔を、田中はそっと盗み見た。暗闇の中でも、彼女の瞳がキラキラと輝き、うっとりと星空を見上げているのが分かる。その無垢な表情は、普段の彼女からは想像もつかないほど、魅力的だった。
(ああ、この人は、本当に星が好きなんだな…)
そう思った瞬間、田中は、心が通じ合ったような、不思議な温かい感覚に包まれた。この奇妙な世界で、ダサいダジャレなどなくても、ただ美しいものを共に見て感動できる。そんな当たり前のことが、今はとても尊いものに感じられた。
しかし、安心するのはまだ早かった。星空解説は、やがて宇宙の成り立ち、ビッグバン、銀河系の構造へとスケールを広げていく。壮大すぎるテーマ、未知の概念、理解を超えたスケール…。それらが、田中の脳内回路を、再び不穏な方向へと刺激し始めたのだ。
(…宇宙の…膨張…? 無限…? 暗黒物質…? ダークエネルギー…? なんだか、よく分からないけど、すごい……まるで……)
脳内で、意味不明な連想ゲームが加速する。「膨張」→「風船?」→「パンパンになる」→「破裂?」→「いや、静かに広がる?」→「じわじわと…」→「染み出す?」→「タンスの奥にしまい込んだ、古い防虫剤の匂い…?」
ナレーターが、ロマンティックに語りかける。
「…さあ、想像してみてください。この広大な宇宙の中で、私たちは、奇跡のような確率で出会い、今、こうして同じ星空を見上げているのです…」
会場全体が、うっとりとした空気に包まれる。カップルたちが、そっと手を握り合う気配。
(奇跡の出会い……同じ星空……そうだな……)
田中も、隣のみさきを意識する。この出会いは、確かに奇跡…なのかもしれない。そんな感傷に浸りかけた、まさにその時。彼の口が、勝手に動いた。思考の最終着地点(防虫剤)へと、一直線に。
「……………なんだか…………ロマンチック、ですね……………。まるで、ずっと昔に、タンスの奥に忘れていた、ナフタリンの匂いが……こう……じわーっと……宇宙全体に……広がっていく……みたいな……………」
言ってしまった。言ってしまったのだ。満天の星空、ロマンティックなナレーション、最高の雰囲気の中で。
ナフタリン。
しかも、宇宙全体に広がるナフタリンの匂い。
次の瞬間、隣に座る鈴木みさきが、びくっ、と体を硬直させたのが分かった。暗闇の中で、彼女が息を呑む音が、やけに大きく聞こえる。
(終わった………。今度こそ、完全に、終わった………。百年の恋も冷めるどころの話ではない。宇宙規模で冷え切った……)
田中は、絶望的な気持ちで、彼女からの、もはや罵倒ですらないかもしれない、完全な拒絶を覚悟した。
だが、予期された反応は訪れなかった。代わりに、暗闇の中で、くすくす、という、押し殺したような笑い声が聞こえてきたのだ。それは、以前のような爆笑発作ではなく、もっと堪えきれない、愛おしいものに対するような、柔らかく、温かい響きを持っていた。
「……………ふふ………ナフタリン…………宇宙に…………?」
みさきは、震える手で口元を押さえながら、肩を揺らしている。
「………………も……………田中さんは…………本当に…………………」
その声には、呆れと、親しみと、そして、明らかに「嬉しい」という感情が混じっていた。
「い、いや、あの、すみません! 今のは、さすがに…!」
「…………いいんです」
彼女は、暗闇の中で、そっと田中の腕に、自分の手を触れさせた。ほんの一瞬、触れただけだったが、その温かさに、田中は心臓が飛び跳ねるかと思った。
「…………それが…………あなた、ですから」
その言葉は、これまでのどんな慰めよりも、どんな賛辞よりも、田中の心に深く響いた。自分の、このどうしようもない「ダサ力」を、彼女は、受け入れてくれている。いや、もしかしたら、それこそを愛おしいと、思ってくれているのかもしれない。
五十二歳、田中一郎。平熱の男の心は、今、間違いなく沸点を超えようとしていた。それは、彼が探し求めていた「昇華」の、一つの到達点なのかもしれなかった。
満天の星の下、暗闇の中で、二人の間には、言葉にならない、温かく、そして確かな繋がりが生まれようとしていた。だが、その煌めきは、まだ本当の輝きを知らない。なぜなら、本当の嵐は、これから始まるのだから。