木村が去った後も、プラネタリウムの出口付近は、異様な空気に包まれていた。遠巻きに見ていた人々も、何事もなかったかのように去っていく者、まだ興味深そうにこちらを見ている者、様々だ。
田中は、隣で小さく震え続けているみさきに向き直った。
「鈴木先生、大丈夫ですか?」
そっと肩に手を触れようとして、寸前で思いとどまる。今の彼女に、どう接すればいいのか分からない。
みさきは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は大きく見開かれ、涙が止めどなく溢れていた。しかし、それは悲しみの涙だけではないように見えた。恐怖、安堵、混乱、そして、田中の先ほどの言葉に対する、説明不能な強い感情が渦巻いているようだった。
「…………たなか、さん…………」
か細い声で、彼の名前を呼ぶ。
「…………どうして………………?」
何が「どうして」なのか、彼女自身も分かっていないのかもしれない。どうして木村が現れたのか。どうして自分の過去が。どうして田中はあんな言葉を。どうして自分はこんな気持ちに…。
「すみません、私には…」
田中が言いかけると、みさきは、ふらり、と彼の胸に顔をうずめるように、寄りかかってきた。
「っ!?」
田中は、驚きと動揺で、体が硬直する。女性に、こんな風に密着されたのは、妻を亡くして以来、初めてのことだった。彼女の華奢な肩が、彼の胸の中で、震えている。シャンプーの、清潔で甘い香りが、鼻腔をくすぐる。
「…………怖かった……………恥ずかしかった……………もう、全部、終わりだって……………思った……………」
くぐもった声が、彼の胸元で響く。
「…………なのに…………田中さんの、あの…………カゴの、話…………聞いたら…………なんだか…………もう…………わけが、わからなくて……………」
涙声の中に、ほんの少しだけ、笑い声のような響きが混じる。
「…………不謹慎だって、分かってるのに…………あの状況で…………どうして、そんな…………へんなこと…………思いつくんですか…………っ」
責めるような口調だが、それは、彼への非難ではなかった。むしろ、彼のその「異質さ」に対する、驚嘆と、ある種の救いのような感情が含まれているように感じられた。
田中は、どうすればいいのか分からず、ただぎこちなく、彼女の背中に、そっと手を添えた。慰めるように、優しく。それは、彼ができる、精一杯の行動だった。
五十二歳の、不器用な男の、ぎこちない抱擁。しかし、それは、傷つき、混乱しているみさきの心を、確かに温めているようだった。彼女の震えが、少しずつ、収まっていく。
しばらくして、みさきはゆっくりと顔を上げた。瞳はまだ涙で濡れ、頬も赤く染まっているが、先ほどのような錯乱状態ではない。むしろ、何か、吹っ切れたような、それでいて、深く傷ついた後のような、複雑な静けさを湛えていた。
「……………すみません、取り乱して………もう、大丈夫です」
そう言って、彼女は田中から身を離した。だが、その目は、真っ直ぐに田中を見つめている。
「…………田中さん」
「はい」
「…………私の父のこと、そして、私と木村君の間のこと……今の話で、大体、分かってしまいましたよね?」
その問いかけに、隠し立てはない。田中は、静かに頷いた。
「……はい、少しだけですが」
「…………私は、ずっと、父のことも、父が代表していたような『計算されたダサさ』も、そして、それに群がる人間たちも、軽蔑してきました。だから、あなたの『天然のダサさ』に惹かれている自分が、許せなくて、怖かったんです」
彼女は、正直に、自分の内面を語り始めた。
「……でも、今日、分かりました。あなたの言葉は……ただダサいだけじゃない。それは、計算も、悪意も、見返りを求める気持ちも、何もない……ただ、そこにあるだけの、純粋な『何か』なんだって」
彼女は、田中の先ほどの「カゴ」の言葉を思い出しているのだろう。あの言葉は、確かに木村の計算ずくのダサさを打ち破り、彼を退散させた。それは、偶然だったのかもしれない。しかし、みさきにとっては、それが真実の力のように感じられたのだ。
「…………あなたの力は、もしかしたら、父が追い求めていた『本物』のダサ力…なのかもしれない。でも、それは、父のように人を操ったり、傷つけたりするためのものじゃない……」
彼女の瞳が、潤む。
「……むしろ、私みたいに、歪んでしまった人間を…………救ってくれる……………光、なのかもしれないって……………」
光。自分の、あの意味不明な言葉が? 田中は、その言葉の意味を、まだ完全には理解できない。だが、目の前で、涙ながらに、しかし確信を込めて語る彼女の姿に、胸を打たれずにはいられない。
「……でも、同時に、怖いんです。木村君は、きっと諦めない。私や、父に関わった人間たちを、放っておかない。……そして、あなたのその『力』にも、きっと目をつけたはずです」
みさきの表情に、再び不安の影が差す。
「……田中さんを、私の問題に、巻き込んでしまう…………それが、怖いんです」
田中は、彼女の言葉を、静かに聞いていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「鈴木先生」
「……はい」
「……私が、あなたの問題に巻き込まれたとして、それは、私の意思です」
「え…?」
「…あなたのことを、もっと知りたいと思ったのも、今日、ここに誘ったのも、私の意思です。そして、先ほど、木村さんに立ち向かった(?)のも、私がそうしたいと思ったからです」
田中は、真っ直ぐにみさきの目を見て続けた。
「…私には、あなたの過去の全てを理解することはできません。私のこの『力』が何なのかも、まだ分かりません。でも…」
彼は、少しだけ、照れたように視線を逸らしたが、すぐに彼女を見つめ直した。
「……それでも、あなたのそばにいたい、と…今は、そう思っています」
それは、五十二歳の男にしては、あまりにも不器用で、青臭い告白だったかもしれない。だが、その言葉には、彼の偽らざる、正直な気持ちが込められていた。
みさきは、その言葉を聞いて、再び瞳に涙を溢れさせた。だが、それは、先ほどの涙とは違う。温かく、そして希望の色を帯びた涙だった。
「……………ばか…………」
小さな声で呟き、彼女は、照れ隠しのように、プイと横を向いた。耳まで真っ赤になっている。
ツンデレの「ツン」が、最強レベルの「デレ」の前触れであることを、田中はもはや経験則で理解していた。
二人の間に、新たな約束が生まれたわけではない。問題が解決したわけでもない。むしろ、より深刻な問題が浮上したと言える。だが、この瞬間、二人の心は、これまでで最も強く、深く、結びついたのかもしれない。
田中一郎の「昇華」。それは、自らの力を理解し、受け入れ、そして、誰かのためにそれを使おうと(たとえ無意識だとしても)決意した時に、新たな段階へと進むのかもしれない。平熱の男の心に灯った熱は、もはや微熱ではない。それは、未来を照らす、確かな炎となりつつあった。
しかし、物語の歯車は、まだ回り続ける。ねじれた因果は、彼らをどこへ導くのか? 「ダサ力ブローカー」とは? 「業界」とは? そして、Dr. ヘンテコリンの真の目的は? 謎は深まり、次なる嵐の予感が、すぐそこまで迫っていた。