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1:穏やかな時間、しかし水面下の波紋

プラネタリウムでの衝撃的な事件を経て、田中一郎と鈴木みさきの関係は、嵐の後の凪のように、表面的には穏やかな時間を取り戻していた。あの夜、田中が口にした「そばにいたい」という不器用な告白と、それを涙ながらに受け止めたみさきの姿は、二人の間にこれまでなかった種類の、確かな繋がりを刻み込んだのだ。


田中は以前にも増して、みさきのことを意識するようになっていた。会社の昼休み、公園のベンチで弁当を広げながらも、ふと彼女の顔が浮かぶ。赤面して俯く姿、必死で取り繕う姿、プラネタリウムで見せた星空に魅入られた無垢な横顔、涙ながらに訴えかける潤んだ瞳…。そのどれもが、彼の灰色の日常に鮮やかな色彩を与えていた。


変化は、彼の「ダサ力(ぢから)」への向き合い方にも現れていた。無理に抑え込もうとはしないし、かといって無自覚に垂れ流すのでもない。自分の内から湧き上がる脈絡のない言葉の断片を、一つの「個性」として認識し始めている。それが目の前の人を傷つけない限り、無理に変える必要はないのかもしれない。プラネタリウムでの「カゴ」の言葉が、結果的に木村を退けみさきを守る形になった(理由は全く不明だが)事実は、彼の中で無視できない経験となっていた。


週末には、ぎこちないながらも二人で会う機会が増えた。近所のカフェでお茶をしたり、少し大きな公園を散歩したり。会話は相変わらずどこか噛み合わない部分もあるが、以前のような張り詰めた空気はない。田中がふとした瞬間に意味不明な言葉(「この落ち葉、なんだか昔使ってたそろばんの珠みたいですね…弾くと音がしそう…いや、しないか…」など)を口走っても、みさきは顔を赤らめつつ肩を震わせて笑いを堪えたり、「…また、変なこと考えてる…」と呆れたように、けれどどこか嬉しそうに呟いたりするようになった。


みさきの中にも大きな変化が訪れていた。田中の前で、少しずつ素直な感情を表に出せるようになったのだ。もちろん長年の癖である「ツン」が完全に消えたわけではない。嬉しいことがあると、つい「べ、別に! あなたのためじゃないんだから!」と言ってしまったり、照れると「…っ! もう! 変なこと言わないでください!」と反射的に反発したりする。だが、その裏にある好意や喜びは、もはや隠しきれていなかった。


特に、田中が自分の過去のトラウマ――父親のこと、木村とのこと――を知った上で、それでも「そばにいたい」と言ってくれたこと。それは彼女にとって何よりも大きな救いとなっていた。「この人は、自分の汚れた部分も弱い部分も、全部受け止めてくれるのかもしれない」。そんな期待が、彼女の頑なだった心をゆっくりと溶かし始めていた。


一方で、心の奥底には常に拭いきれない不安の影が付きまとっていた。木村の存在。彼が最後に残した脅迫めいた言葉。「また、すぐに連絡するからな」という不吉な予告。いつ、どんな形で彼が再び自分たちの前に現れるか分からない。その時、田中を巻き込まずにいられるだろうか? あの「ダサ力業界」と呼ばれる、父親が関わっていた闇の世界が、自分たちを狙っているのではないか? そんな恐怖が、穏やかな日々の水面下で絶えず波紋を広げていた。


彼女は田中との時間に安らぎを感じれば感じるほど、その時間を失うことへの恐怖に苛まれる。それゆえに、時折、田中に対してわざと冷たい態度をとったり、距離を置こうとしたりすることがあった。「私なんかに、関わらない方がいい」という本心とは裏腹な防衛本能が、無意識に働いてしまうのだ。


「鈴木先生、なんだか最近、元気がないように見えますが…何かありましたか?」

ある日の保育園からの帰り道、田中が心配そうに尋ねる。

「…別に、何もありません。田中さんの気のせいです」

そう言って、ぷいと顔を背けるみさき。しかし、その横顔には隠しきれない憂いが浮かんでいる。

「そうですか…? なら、いいのですが…」

田中はそれ以上は踏み込まない。彼女が何かを隠していることは察している。だが、無理に聞き出すことはできない。ただ、彼女が助けを求めてきた時には必ず力になろうと、そう心に決めていた。


会社や保育園における周囲の反応にも、微妙な変化が見られた。田中が「伝説のダサ力保持者」として一目置かれる状況は変わらないが、当初の熱狂は少し落ち着き、「あの力は、下手に刺激しない方がいい」といった畏敬に近い感情で見られるようになっていた。佐藤君は相変わらず田中の言動を観察し、「課長代理のダサさの根源を探る!」と称してストーカーまがいの行動(休憩時間に後をつける、ゴミ箱を漁ろうとする等)に出ることもあったが、田中にとっては迷惑なだけだった。


保育園では、みさきの田中への態度の軟化(ツンデレのデレ比率上昇)が、同僚たちの間で新たな噂の種となっていた。「みさき先生、田中さんの親戚の方と、もしかして…?」「発表会の時の反応、やっぱりそういうことだったのね!」「ダサ力って、本当に恋を生むのかしら…?」などと囁かれている。みさきはその度に「違います!!」と真っ赤になって否定するが、もはや誰も信じてはいない。


親友である藤堂怜花は、そんな二人を静かに、しかし鋭い観察眼で見守っていた。カフェで怜花と会ったみさきは、田中との関係が進展していることを照れながらも嬉しそうに報告したが、同時に木村の影と過去への恐怖も打ち明けた。

「…怖いんだ、怜花。田中さんを、私のせいで危険な目に遭わせたくない…」

「…気持ちは分かるわ。でも、彼を遠ざけることが、本当に彼のためになるのかしら?」怜花は冷静に問いかける。「彼は、あなたのことを真剣に想ってくれている。あなたも、彼のことを…。だったら、二人で向き合うべき問題じゃない?」

「でも…!」

「それに、彼のあの『力』…あれは、もしかしたらあなたの父親が歪んだ形で追い求めた『ダサ力』の、本来の姿なのかもしれない。光と影のようにね。だとすれば、それはあなたを苦しめるだけでなく、救う力にもなり得るんじゃないかしら」

怜花の言葉は示唆に富んでいた。みさきはその言葉の意味を完全には理解できないながらも、胸の奥に小さな希望の灯がともるのを感じていた。


穏やかに見える日々。その水面下では、それぞれの想い、不安、見えない脅威が渦巻いている。田中とみさきの関係は確実に深まっている。だが、それは同時に、彼らを待ち受けるであろう、より大きな試練への序章に過ぎないのかもしれない。平熱だった男が手に入れた微熱は、今や確かな温度を持ち始めているが、その熱が二人をどこへ導くのか、まだ誰にも予測できない。波紋は静かに広がり、やがて来るべき嵐の予感を色濃く漂わせていた。

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