目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

3:忍び寄る「業界」の影 ~金と欲望の罠~

Dr.ヘンテコリンとの接触で、田中は自らの持つ力の特異性、この世界の裏に潜む「業界」の存在、鈴木伝助とヘンテコリンの意外な繋がりを知ることになった。その事実は彼に新たな視点を与えた一方、鈴木みさきを取り巻く状況の危険性をより強く認識させるものだった。


(みさきさんは、ただ父親の過去に苦しめられているだけじゃない。彼女自身が、あの『業界』の連中にとって、何らかの価値…あるいは、弱みを持っているのかもしれない…)


木村が言っていた「ダサいダジャレのアイデア提供」。あれは単なる昔話では済まされない、根深い問題の表れなのかもしれない。みさきは今も何らかの形で、父親の残した負債や「業界」との繋がりによって脅かされているのではないか?


田中は、みさきのことを案じる気持ちと、踏み込みすぎることで彼女をさらに傷つけてしまうのではないかという恐れの間で揺れていた。ヘンテコリンの「君の力は諸刃の剣だ」という言葉が、彼の背中を押していた。


そんな折、事態は急速に動き出す。木村からの執拗な嫌がらせが始まったのだ。最初はみさきの携帯電話への無言電話や、脅迫めいたショートメッセージだった。


『親父の借金、いつ返すんだ?』

『俺のダサ力アイデア、まだ枯渇してねぇだろうな?』

『あのオッサン(田中のこと)といると、ロクなことにならねぇぞ』


みさきはこれらの連絡を無視し続けていたが、精神的なプレッシャーは日に日に増していく。夜もよく眠れなくなり、食欲も落ちていった。保育園での仕事中も、ふとした瞬間に表情が険しくなり上の空になることが増えた。同僚たちもその変化に気づき、「みさき先生、大丈夫?」「何か悩み事でもあるの?」と声をかけるが、彼女は「…なんでもありません」と頑なに心を閉ざすだけだった。


ついに木村は、より直接的な行動に出てきた。ある日の夕方、保育園の閉園間際。保護者たちが子供を迎えに来る喧騒に紛れて、木村とその取り巻き(前回とはまた違う、見るからに柄の悪い数人の男女)が保育園の前に現れたのだ。


「よぉ、みさき先生! ちょっとツラ貸せや!」

木村は明らかに周囲の目など気にしていない様子で、大声でみさきを呼びつけた。


園庭にいた子供たちは怯え、保護者たちは訝しげに彼らを見ている。五十嵐園長が慌てて間に入ろうとするが、木村の取り巻きに威圧され動けない。


「な、なんなんですか、あなたたちは! ここは子供たちのいる場所ですよ!」

みさきは恐怖に震えながらも、子供たちを守ろうと必死で対峙する。

「うるせぇな。ちょっと話があるだけだ。金の話しだよ、キン・ノ・ハ・ナ・シ!」

木村は下品な笑みを浮かべながら、一枚の古い借用書のようなものをみさきの目の前に突きつけた。

「お前の親父が俺にした借金! 利子が膨らんで今やこんな額になってんだぜ? どうすんだ、これ?」


借用書に書かれた金額は常識では考えられないような莫大なものだった。みさきは顔面蒼白になる。

「そ、そんな…! でたらめよ! 父の借金はもう時効のはず…!」

「時効? 甘ぇこと言ってんじゃねぇよ。俺たちの『業界』にそんなモン通用しねぇんだよ!」

木村は凄むように言った。「まあ、金で返せねぇなら他の方法もあるぜ? 例えば…お前のその、親父譲り(?)の『ダサ力センス』で俺たちに協力するとかよ」


彼はみさきにさらに顔を近づけ、囁くように言った。

「あるいは…あの『天然モノ』のオッサン。あいつの力は高く売れるかもしれねぇなぁ? あんたがうまくあいつを『手懐けて』俺たちに引き渡してくれりゃあ、借金のこと、考えてやらんでもねぇぜ?」


みさきの顔から完全に血の気が引いた。金銭的な要求だけでなく、自分を利用して田中に近づき、彼の力を悪用しようとしている。木村の狙いはそこにあったのだ。


「……絶対に、嫌よ!」

みさきは渾身の力で木村を睨みつけた。「田中さんを、あなたたちみたいな人間に、利用させたりしない!」


「へぇー、言うじゃねぇか。じゃあどうする? このままじゃあんたの可愛い保育園にも、色々『迷惑』がかかるかもしれねぇぜ? 例えば変な噂を流されたり、毎日こうやって押しかけられたり…それでもいいのか?」

卑劣な脅し。みさきは唇を噛み締め、悔しさに涙が滲む。子供たちや他の保護者、同僚にまで迷惑がかかることだけは絶対に避けたい。


その絶体絶命の状況に、割って入る声があった。

「…そこまでにしてもらおうか」


声の主は田中一郎だった。彼はたまたま残業で遅くなり、健太を迎えに来るのがこの時間になったのだ。目の前の光景を見て瞬時に状況を察した。


「田中さん…!?」みさきが驚きの声を上げる。

「ほう、噂をすれば…」木村がニヤリと笑う。「なんだよオッサン、ヒーロー気取りか?」


田中は木村の前に静かに立ち、真っ直ぐにその目を見据えた。彼の表情は平熱そのもの。だが、その瞳の奥には静かながら揺るぎない決意の光が宿っていた。


「彼女にこれ以上関わらないでいただきたい。借金のことも脅迫も、全てやめていただきたい」

「はっ! あんたに指図される覚えはねぇな! これは俺たちとこいつの、そしてこいつの親父の問題だ!」


「問題があるのであれば法的な手続きを踏むべきでしょう。このような脅迫行為は許されることではありません」田中はあくまで冷静に、正論を述べた。


田中のその落ち着き払った態度が、逆に木村の癇に障ったようだ。

「うるせぇ! 『業界』のルールも知らねぇ素人がでしゃばってくんじゃねぇ!」

彼は取り巻きたちに目配せした。数人の男女がジリジリと田中を取り囲むように動き出す。明らかに暴力に訴えるつもりだ。


みさきが悲鳴を上げる。「やめて! 田中さん!」


五十嵐園長や他の保護者も恐怖で動けない。絶体絶命のピンチ。


田中は迫り来る脅威を前に、不思議なほど冷静だった。恐怖がないわけではない。だが、それ以上にみさきを守らなければ、という強い想いが彼の全身を支配していた。


(…何か、言わなくては…この状況を、打開する言葉を…)


彼は意識して「ダサい」言葉を探そうとしたわけではない。ただ、目の前の暴力と悪意に満ちた状況、追い詰められたみさきの姿、怯える子供たちの顔…それらが彼の脳内で混ざり合い、彼自身の存在意義への問いへと繋がっていくような、奇妙な感覚があった。


彼の口から、再び、あの静かでありながら異質な響きを持つ言葉が紡ぎ出された。プラネタリウムでの「カゴ」の話よりもさらに深く、核心に触れるような、不可解な問いかけだった。


「………………………皆さんは………………朝、目が覚めて…………自分が、履いている靴下が…………左右、全く違う種類で、しかも、片方が異常に伸びて、床に届きそうになっていたら……………まず、どうしますかね…………?」


靴下? 左右が違う? 片方が伸びている?


その場にいた全員が一瞬、思考を停止させた。木村も取り巻きたちも、あまりにも突拍子もない、状況と全く関係のない問いかけに完全に意表を突かれたのだ。


「…………な、なんだと……? 靴下が、伸びてる……?」木村が困惑したように呟く。


田中は続ける。表情は変えない。ただ遠くを見つめるような、虚ろな目で。

「…………しかも…………その、伸びた方の靴下の先から…………なぜか、微かに…………ピアノの音が……聞こえてきたとしたら…………?」


ピアノの音? 靴下の先から?


もはやダサいとか意味不明というレベルを超えている。それは聞く者の現実認識そのものを揺さぶるような、悪夢的なイメージの奔流だった。


「…………ひっ……!」

木村の取り巻きの一人が小さな悲鳴を上げた。別の男は顔面蒼白になって後ずさる。


「…………ピアノの…………音…………?」木村自身も顔を引き攣らせ、全身を小刻みに震わせ始めた。彼の脳はこの理解不能な情報奔流を処理できず、完全にパニックに陥っているようだった。計算されたダサさしか知らない彼にとって、この純粋で根源的な「意味のなさ」は耐え難い恐怖なのだ。


それはヘンテコリンが語っていた「虚無ダサネス」の一端なのかもしれない。だが田中のそれは、相手を蝕む暗黒の力ではなく、むしろ悪意や暴力といった人間の作り出した「意味のある」攻撃性を、その根底から無効化してしまうような、静かな「虚無の盾」のようなものなのかもしれなかった。


「…………う……うわぁあああああっ!!!」


木村は突然奇声を発すると、取り巻きたちと共に文字通り蜘蛛の子を散らすように保育園から逃げ去っていった。まるで悪霊にでも取り憑かれたかのように。


後に残されたのは、呆然とするみさき、園長、保護者、子供たち、そして自らが発した言葉の意味すら理解できず、ただ静かに佇む田中一郎だけだった。


「業界」の影は一時的に退いた。しかしその代償として、田中一郎の内に眠る「力」の新たな、そしてより不可解な側面が白日の下に晒されることになった。彼の「昇華」は、彼自身にも周囲にも、予測不能な影響を与え始めていた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?