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5:田中一郎の「決意」と、虚無の反響

鈴木みさきからの、あまりにも突然で冷たい拒絶。その言葉は数日間、田中一郎の心を重く蝕んでいた。会社での仕事も上の空。同僚からの視線も以前とは違う、同情や憐れみのようなものが混じっているように感じられ居心地が悪い。昼休みの公園のベンチ、プラネタリウム、カフェ、全てが彼女との記憶を呼び覚まし胸を締め付けた。


(本当にこれで良かったのか…? 俺は彼女を諦めるべきなのか…?)


自問自答を繰り返す日々。だが、彼の心のどこかには拭いきれない違和感があった。あの時の彼女の瞳。冷たい言葉とは裏腹な涙。必死で何かを守ろうとしているような、悲痛な表情。


(あれは、本当に彼女の本心だったのだろうか…?)


疑念が頭をもたげる。怜花から聞いた彼女の過去。父親のこと、木村のこと、「業界」の影。それらが彼女にあんな言葉を言わせたのではないか? 自分を危険から遠ざけるために…。


もし、そうだとしたら…?


田中は考えた。自分が彼女を諦め、このまま身を引くことが本当に彼女のためになるのだろうか? 木村は諦めないだろう。彼女は一人で、あの闇と対峙し続けなければならないのか?


それは違う、と直感的に思った。


プラネタリウムで彼女が言った。「あなたの言葉は…光、なのかもしれないって…」。自分のこの不可解な力が、彼女にとってたとえ一筋でも光になり得るのなら。自分は逃げるべきではない。


(そうだ…俺は彼女のそばにいると決めたんだ。簡単に諦めてはいけない…!)


田中の中で何かが、カチリと音を立てて切り替わった。平熱だった男が初めて明確な「意思」を持って困難に立ち向かおうと決意した瞬間だった。昇華への道は受け身でいては開けない。自ら行動し、未来を切り開いていく必要があるのだ、と。


彼はまず情報を集めようと考えた。再びDr.ヘンテコリンに連絡を取る。今度はもっと具体的に、「業界」のこと、鈴木伝助のこと、そして木村のような人間からみさきを守る方法について尋ねるために。


ヘンテコリンからの返信は相変わらず奇妙だったが、核心に触れる情報も含まれていた。「業界」は単なるチンピラの集まりではなく、より組織化され政治や経済の裏にも影響力を持つ巨大な「ダサ力(ぢから)シンジケート」のような存在である可能性。「ダサリティ・ハッキング」はさらに進化しており、人の精神を操るだけでなく物理的な現象にすら影響を与え得る(!?)危険な技術であること。そして鈴木伝助は完全には消えておらず、今もどこかで暗躍している可能性が高いこと…。


(…事態は、想像以上に深刻だ…)田中は背筋が寒くなるのを感じた。だが、彼の決意は揺らがなかった。


彼はみさきに会って、もう一度話をしようと決めた。拒絶されるかもしれない。それでも自分の想いを伝え、彼女の力になりたいと申し出るつもりだった。


しかしその機会は、予期せぬ形で、しかも最悪のタイミングで訪れることになる。


ある週末の夜。田中が自宅アパートでこれからのことを考えあぐねていると、一本の電話がかかってきた。表示は「藤堂怜花」。


「もしもし、田中です」

『田中さん!? 大変なんです! みさきが…!』

電話口の怜花の声は切迫していた。

『木村たちに…! 廃工場に連れて行かれたみたいなんです! 「父親の借金の清算」とか、「ダサ力鑑定」とか言って…!』

「なっ…!?」

『場所は…! 分かりました、廃工場ですね!? すぐに行きます!』田中は叫ぶように言った。


怜花から送られてきた地図情報を頼りに、田中はタクシーを飛ばして指定された港近くの廃工場へと向かった。月明かりだけが頼りの寂れた場所。錆びついた鉄扉の隙間からは明かりが漏れ、複数の人間の声が聞こえる。


田中は息を殺して内部の様子を窺った。広い工場の中心部で、みさきが数人の男たちに取り囲まれている。木村もいる。その中心には、見慣れないが異様な威圧感を放つ初老の男が座っていた。おそらく彼が「業界」の幹部クラスの人間なのだろう。「ダサ力鑑定士」を名乗っているらしい。


「さあ、鈴木みさき君。君の中に眠る、父親譲りの『ダサ力ポテンシャル』、見せてもらおうか」鑑定士らしき男がねっとりとした声で言う。「我々のシンジケートに協力すれば父親の借金は帳消し。悪い話ではないだろう?」


「嫌です! 父のような人間には、絶対になりません!」みさきは毅然として拒絶する。


「ほう、強情だな。まあ、それもいいだろう。ならば君自身ではなく、君が連れてきた『お宝』の方を鑑定させてもらおうか」男の視線が部屋の隅に向けられる。そこには、なぜか田中と同じ会社の同僚である佐藤君が縛られて座らされていた!


「佐藤君!? どうして君がここに!?」田中は思わず声を漏らしそうになる。


「くそっ! 俺としたことが、まんまと罠にはまっちまって…!」佐藤君は悔しそうに叫ぶ。どうやら木村たちが田中の周辺を探るうちに、自称「ダサ力エース」である佐藤君に目をつけ、誘拐したらしい。


「この男、なかなか面白い『計算ダサ力』の持ち主だ。我々の『実験』の素材として使えそうだ」鑑定士は冷酷に言い放つ。「そして本命はもちろん、君を助けに来るであろう『天然モノ』の田中一郎だ。彼の力こそ我々が探し求めていた、『究極のダサ力』の鍵かもしれん」


やはり狙いは自分だったのだ。みさきと佐藤君はそのための人質。


「さあ、出てきたまえ、田中一郎!」鑑定士の声が工場内に響き渡る。


田中は覚悟を決めた。隠れていても仕方がない。彼は堂々と工場の中心部へと歩み出た。


「私が、田中一郎です」


「ほう、来たか」鑑定士は値踏みするように田中を見る。「噂通りの冴えない中年といった風貌だな。だがその内に秘めた『力』は本物らしい」


みさきが悲鳴に近い声を上げる。「田中さん! 来ちゃダメ!」

佐藤君も「課長代理! 逃げてください!」と叫ぶ。


「心配いりません」田中は二人を安心させるように穏やかに言った。「私はあなたを助けに来たんです、鈴木先生」


そして鑑定士に向き直る。

「彼女たちを、解放してください。要求があるなら、私に」


「ククク…威勢がいいな」鑑定士は不気味に笑う。「よかろう。ならば君のその『究極のダサ力』とやらを見せてもらおうか。我々を納得させられるだけの『虚無』を」


虚無。ヘンテコリンが言っていた危険なダサ力の領域。しかし田中は、もはや恐れてはいなかった。みさきを守る。その想いが彼の全てを突き動かしていた。


木村や他の手下たちがジリジリと田中を取り囲む。彼らの目には嘲り、好奇、そしてかすかな恐怖が入り混じっている。


田中は目を閉じた。深く息を吸い、吐き出す。彼の心は不思議なほど静かだった。怒りでも恐怖でもない。ただ目の前の状況と自分自身の存在が、混じり合い溶け合っていくような、奇妙な感覚。


(虚無……とは、なんだろう……? 何もないこと…? 意味がないこと…? ならば……)


彼の脳裏に言葉にならないイメージが浮かび上がる。それは音も色も形もない、ただただ広がる完全な「無」。そしてその「無」の中に、ぽつりと存在する、あまりにも場違いで、しかし否定しようのない「何か」。


ゆっくりと田中は目を開いた。その瞳にもはや何の感情も映っていない。ただ底なしの静寂があるだけだ。彼の口から、静かに、しかしその場にいる全員の鼓膜を、そして魂を直接震わせるような異様な響きを持った言葉が、紡ぎ出された。


「……………………………………………………………………………………………ボタン」


ただ、一言。


「ボタン」。


何の変哲もない単語。だが、その発せられ方、その場の文脈からのあまりの乖離、そして何よりもその言葉が内包する圧倒的なまでの「無意味さ」。それは聞く者の思考を強制的に停止させるような力を持っていた。


鑑定士の顔から余裕の笑みが消え、驚愕と混乱の色が浮かぶ。「……ボ、タン…? …なんだ、それは…?」


木村や手下たちも完全に動きを止めている。脳がその言葉の意味を、あるいは意味のなさを、処理できずにいるのだ。


田中は続けない。ただ黙って彼らを見つめている。その「沈黙」すらもが異様なプレッシャーとなって彼らを襲う。


「……ぐ……っ……や、やめろ……! 何か…何か言え! その…ボタンがどうしたというのだ!」鑑定士が必死で平静を装おうとするが、声は震えている。


田中は答えない。ただ「ボタン」という言葉が、その場の空気の中に重く冷たく反響しているだけ。


それはもはやダジャレではない。ダサさですらないのかもしれない。ただ存在する「虚無」。意味を剥奪された、純粋な言葉の残骸。


木村が突然叫び出した。

「……い、嫌だ……! 頭の中に……ボタンが……ボタンがぁああああ!」

彼は頭を掻きむしり、錯乱したように床を転がり始めた。


他の手下たちも次々とパニック状態に陥っていく。「ボタン…押せない…!」「ボタンが落ちてくる…!」「服のボタンが…全部なくなった…!?」など意味不明なことを口走り、互いに争い始めたり壁に頭を打ち付け始めたりする始末。


鑑定士も顔面蒼白になり椅子から転げ落ちる。「…ば、馬鹿な…! これが…『虚無ダサネス』の…真髄…!? 鈴木伝助すら…到達できなかった領域だと…!?」彼は這うようにして出口へと逃げようとする。


田中はただ静かに、その光景を見ていた。彼自身、自分が何をしたのか完全に理解しているわけではない。ただみさきを守りたいという想いが、彼の内に眠る「虚無」を引き出し、それが暴走する悪意を無効化した。それだけのことなのかもしれない。

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