混乱と狂乱の中、廃工場に残されたのは田中、みさき、そしてまだ縛られたままの佐藤君だけだった。逃げ去った鑑定士や、錯乱して動けなくなった木村たち。その異様な光景は、田中が放った「ボタン」という一言が引き起こした想像を絶する結果だった。
佐藤君の縄を解き、みさきに駆け寄る田中。みさきはまだ呆然としていたが、その瞳には恐怖ではなく畏敬に近いような、そしてどこか安堵したような光が宿っていた。
「田中さん……あなたは、一体……?」
「私にも、よく分かりません」田中は正直に答えた。「ただ、あなたを守りたかった。それだけです」
その言葉に、みさきは再び涙を溢れさせた。だがそれは悲しみの涙ではない。感謝と、そして目の前の男への、どうしようもないほどの深い想いから来る涙だった。彼女は何も言わず、ただ田中の胸に再び顔をうずめた。今度はしっかりと、彼にしがみつくように。
田中は優しく彼女を抱きしめた。失いかけていた絆が、今、最も過酷な試練を経てより強く結び直された瞬間だった。
佐藤君も一部始終を見ていた。彼は田中の「ボタン」の一言が引き起こした現象に完全に打ちのめされていた。
「……課長代理……あれが……本当の……ダサさ……いや、もはやダサさとか、そういう次元じゃない……あれは……『無』だ……! 僕が追い求めていたものの、対極にある、究極の『無』……!」
彼は打ちひしがれながらも、何か新しい境地を見出したかのようにブツブツと呟いていた。
やがて警察のサイレンが遠くから聞こえてきた。怜花が通報してくれたのだろう。木村たちは逮捕され、佐藤君も無事に保護された。田中とみさきは事情聴取を受けることになったが、事件のあまりの奇妙さ(「ボタン」の一言で集団が錯乱?)に警察も首を傾げるばかりだった。
事件はひとまずの終結を見た。それでも多くの謎が残された。
「ダサ力シンジケート」の全貌は? 逃走した鑑定士の行方は? 未だ暗躍する可能性のある、みさきの父・鈴木伝助の目的は? そして田中一郎の内に目覚めた、「虚無」すら感じさせる力の正体とは?
その数日後、田中とみさきは再びあの図書館を訪れていた。あの日、二人の関係が大きく動き出した場所。
「……ごめんなさい、田中さん。結局、あなたをこんな危険なことに巻き込んでしまって」
みさきは申し訳なさそうに頭を下げる。
「もう、謝らないでください」田中は優しく微笑む。「私たちは、二人で乗り越えたんですから」
彼の言葉に、みさきは顔を赤らめながらも嬉しそうに頷いた。彼女の表情にもう以前のような暗い影はない。過去のトラウマが完全に消えたわけではないだろう。しかし、田中という存在が彼女にとって確かな支えとなっているのは明らかだった。
「……でも、あなたのあの力…『ボタン』って言った時の…あれは、一体…?」
「さあ…私にも、まだよく分かりません」田中は首を傾げる。「でも、あの時、思ったんです。意味や面白さを求めるから、人は争ったり傷つけ合ったりするのかもしれない。だったら、意味なんて、なくていいんじゃないか、って」
それは彼が辿り着いた「昇華」の一つの形なのかもしれない。無意味さの中にこそ真実がある? あるいは平和がある? 哲学的な問いが、彼の心の中に生まれていた。
「…なんだか、難しいですね」みさきはくすりと笑う。「でも、そんなわけのわからないことを考えている田中さんが、私は…」
彼女はそこで言葉を止め、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
その時、田中のスマートフォンが鳴った。相手はDr.ヘンテコリン。
『もしもし、田中君かね? 例のシンジケートの件、少し動きがあったようだぞ…どうやら君の『虚無ダサネス』の噂が裏の世界で急速に広まっているらしい…そして、どうやら鈴木伝助本人も、君に接触しようとしている気配がある…!』
新たな嵐の予感。鈴木伝助、本人の登場…?
田中は電話を切ると、隣で不安そうに見つめるみさきに向き直った。
「鈴木先生。どうやら、まだ終わりではなさそうです」
「…………」
「でも、私はもう逃げません。あなたと一緒に、向き合っていきたい」
田中はそっと、みさきの手に自分の手を重ねた。彼女は驚いたように目を見開いたが、振り払うことはしなかった。むしろその手を、優しく握り返してきた。
五十二歳、平熱だった男。彼の心は今、確かに熱を帯びている。アラサーのツンデレ保育士と共に、この奇妙な世界の謎と自らの力の核心へと、歩みを進める決意を固めて。その道のりは険しく予測不能だろう。だが、二人の手の中には確かな温もりと、未来への微かな光が灯っている。
彼の「昇華」の物語は、まだ始まったばかり。反響する虚無の果てに、彼らは何を見つけるのか?
夜明けは、近いのかもしれない。あるいは、それは、さらなる深淵への入り口なのかもしれない。