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1:メトロノームが刻む微熱 ~当たり前の、奇跡~

あの廃工場での激闘(と呼ぶにはシュールな結末だったが)を経て、季節はゆっくりと針を進め、街には冬の気配が色濃く漂い始めていた。田中一郎と鈴木みさきの関係も、あの事件を境に新しい季節を迎えていた。まるで、ずっと不規則に揺れていたメトロノームが、ようやく心地よい一定のリズムを刻み始めたかのようだ。


二人の間に漂っていた猜疑心や遠慮、過剰な緊張感は薄れ、不器用ながらも確かな信頼と穏やかな親愛の情が育まれていた。もちろん、みさきの「ツン」が完全に消え去ったわけではない。田中がふとした瞬間に繰り出す予測不能なダジャレ(あるいは虚無に近い何か)に、彼女は相変わらず顔を真っ赤にして俯いたり、「…っ! もう、やめてください!」と反射的に叫んだりする。それでもその声色には、もはや本気の怒りや拒絶はなく、「また始まったわ、この人は…」という諦めと、「でも、これがこの人なのよね」という深い受容、そして隠しきれない愛しさが滲んでいることを、田中は感じ取れるようになっていた。


「田中さん、このマフラー、ちょっと編んでみたんですけど…べ、別に! あなたのために編んだわけじゃないですからね! 毛糸がたまたま余ってただけで! サイズが合う人が他にいないかと思って…仕方なく…」

そう言って差し出された手編みのマフラーは、少し不揃いな編み目がご愛敬だが、落ち着いたチャコールグレーが田中の地味なコートによく似合った。温かく、どこか彼女自身のぬくもりまで伝わってくるようだ。

「ありがとうございます、鈴木先生。嬉しいです。大切に使いますね」

田中が素直に礼を言うと、みさきは「ふ、ふん! だから! 嬉しいとか言われても困ります!」と顔を真っ赤にしてそっぽを向くが、その口元は微かに綻んでいた。


会社の帰り道、待ち合わせて近所の公園を散歩する機会も増えた。落ち葉を踏みしめながら交わすのは他愛のない話。保育園での子供たちのエピソード、会社の同僚の噂話(主に佐藤君の奇行)、新しくできたカフェの情報。ごく普通の、恋人同士のような時間が、二人にとってはかけがえのない奇跡のように感じられた。


ある日の散歩中、公園の池でカモが一心不乱に水面にお尻を突き出して餌を探しているのを見て、田中が呟いた。

「……カモですねぇ……なんだか、必死というか……。見てると、うちの会社の古くなったシュレッダーを思い出しますね……。こう、紙を飲み込む時の、あの執念みたいな……いや、別にカモが紙を食べてるわけでは……ごめんなさい、また変なこと…」

カモとシュレッダーの執念。

みさきは数秒間動きを止め、やがて、ぷはっと吹き出した。最近は赤面より先に笑いが来ることもある。

「ふふ…ふふふ……もう、田中さんったら……カモさんが可哀想じゃないですか……」

「い、いや、可哀想というか…むしろ褒めてるつもり…?」

「どこがですか!」

クスクス笑いながら、みさきは自然に田中の腕に自分の腕を絡めてきた。田中は一瞬ドキッとしたが、振り払うことはせず、心臓の鼓動が少し速くなるのを感じる。繋がれた腕から伝わる彼女の体温が、冷たい冬の空気の中で何よりも温かかった。


みさきの変化は、保育園の同僚たちも気づいていた。

「みさき先生、最近すごく表情が柔らかくなったわよね」

「うんうん! 前は氷の女王様みたいだったのに!」

「やっぱり、あの田中さん? と、うまくいってるのかしら?」

「きっとそうよ! ダサ力(ぢから)セラピー効果ってやつ!?」

そんな噂話を耳にしても、みさきは以前のようにムキになって否定せず、「…もう、皆さんたら、適当なこと言って…」と照れながら流せるようになっていた。


藤堂怜花とも、田中は時折カフェで話をするようになっていた。怜花は「無ダサ力者」の冷静な視点から二人の関係を見守り、時に的確なアドバイス(という名のツッコミ)をくれる。

「みさき、だいぶ素直になったみたいね。よかったわ」

「はい、おかげさまで…」

「でも田中さん、あなたも相変わらず。この前みさきから聞いたわよ、『スーパーの特売の卵が、なんだか日曜日の朝のお父さんの寝癖みたい』って言ったんでしょ? どういう思考回路なのよ、本当に」

「い、いや、あれは…なんとなく…」

「まあ、それがあなただし、みさきもそれを求めてるんでしょうけど…」

怜花は呆れたように笑いつつも、二人の未来を心から応援しているようだった。


会社における田中への風当たりも少しずつ変化を見せていた。伝説の「ダサ力保持者」という扱いは変わらないものの、畏敬の念に加え、最近のみさきとの関係の噂も広まり、「平熱の田中さんが、ついに春を迎えた…?」「いや、あれはダサ力による特殊な恋愛現象だ」「でも、なんだか幸せそうじゃない?」といった好意的な(?)視線が増えている。佐藤君は相変わらず「課長代理! その『虚無ダサネス』の境地、僕にもご教授を!」と付きまとい、最近は田中のダサ力(?)分析に加え、「恋愛におけるダサ力の応用」などと言い出して自作の(恐ろしく的外れな)ラブソングを披露してくるため、さらに厄介さが増していた。


穏やかで、ゆるふわで、それでいて確かな絆が深まっていく日々。とはいえ、水面下では無視できない波紋が確実に広がっていた。田中もみさきも、あの廃工場での事件が「終わり」ではないことを、心のどこかで理解している。木村の執念、「ダサ力シンジケート」の存在、そして行方知れずの鈴木伝助。いつか必ず、彼らは再び二人の前に現れるだろう。その時に備えなければならない。この、当たり前のようで奇跡のような時間を守るために。メトロノームが刻む穏やかなリズムは、いつか来る嵐の前の静けさなのかもしれない。

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