シンジケートによる陰湿な嫌がらせが続く中、田中一郎はDr.ヘンテコリンのアドバイスに従い、「自然体でありながら、確固たる意志を持つ」ことを心がけていた。日常業務にはこれまで通り真面目に数字と向き合うが、謂れのない中傷や妨害には過剰に反応せず、ただ淡々と事実を指摘する。そして時折、無意識に湧き上がる「虚無」に近い言葉の断片が、防御壁のように、あるいはカウンターのように(意図せず)機能する、そんな奇妙なバランスを保っていた。
その効果は意外な形で現れ始めていた。
例えば、社内で「田中が機密情報を漏洩している」という噂を執拗に流す営業部の社員に対し、田中がコピー機の前でポツリと呟いた。「……このコピー用紙の白さ……なんだか、雪山で遭難した時に遠くに見える救助ヘリの幻みたいですね…………遠すぎて、声も届かない……………そんな感じ…………」。それを聞いた社員は顔面蒼白になって震え上がり、以後、ぱったりと噂話を流すのをやめた。
また、経理システムに不具合が頻発し上司から「田中君、しっかりしてくれよ!」と叱責された際、田中が窓の外を見ながら漏らした。「…………窓に映る自分の顔が…………時々、知らないおじいさんの顔に見えることが…………あるんですよね…………しかも、そのおじいさん、妙にラッパを吹くのが上手そうで……………困る……………」。それを聞いた上司は「ら、ラッパ…? いや、すまん、少し言い過ぎた…しっかり頼むぞ…」となぜか急に態度を軟化させ、足早に去っていった。
田中の「虚無ダサネス」は、悪意やプレッシャーといった「意味のある」攻撃性を、その根源にある「空虚さ」を突きつけることで無力化しているのかもしれない。田中自身はそのメカニズムを理解していなかったが、結果として社内での嫌がらせは徐々に沈静化していった。
みさきの方も、ヘンテコリンの怪しげなペンダントを身につけていた(効果は不明だが、お守り代わりになっている)。なにより、田中に相談し、二人で立ち向かう姿勢が彼女の精神的な支えとなっていた。保育園周辺の不審者の目撃情報は依然としてあったが、彼女は毅然とした態度を崩さず、五十嵐園長や他の同僚たちも協力的だったため、大きな問題には発展せずにいた。
そんなある日のこと。みさきの元に差出人不明の一通の手紙が届いた。封筒には旧姓の「鈴木みさき」とだけ記され、切手も貼られていない。明らかに直接投函されたものだ。警戒しながら封を開けると、中には一枚だけ、古びた写真が入っていた。
それは、幼いみさきと若き日の父親、鈴木伝助が二人で写る写真だった。場所は子供の頃に一度だけ連れて行ってもらったプラネタリウムのロビー。父親は芸人らしい派手な衣装で作り物の笑顔を浮かべているが、隣の幼いみさきはどこか不安げで、父親とは距離を置いているように見える。
写真の裏には一言だけ、乱れた筆跡でこう書かれていた。
『みさき、会いたい。父より』
「…………っ!」
みさきは息を呑んだ。父…鈴木伝助からの接触。なぜ今? 何の目的で? 恐怖と、ほんのわずかだが否定できない複雑な感情が彼女の胸に込み上げる。会いたい? なぜ? 家族を捨て、借金を残し、多くの人を不幸にして消えた父が、今さら何を…。
彼女はすぐに田中に連絡する。震える声で手紙のことを伝えた。
「…父からです…どうすればいいのか、わからない…」
「落ち着いてください、鈴木先生」田中は冷静に受け止めた。「これは罠かもしれません。シンジケートが、あなたと私をおびき出すための」
「でも…もし、本当に父だったら…?」
「だとしても、慎重に行動すべきです。まずはDr.ヘンテコリンに相談しましょう」
二人はすぐにヘンテコリンに連絡を取り、手紙のことを報告した。
「……デン助から、だと…?」ヘンテコリンの声には驚きと苦々しさが混じっていた。「奴め、ついに動き出したか…。これは十中八九、罠だろう。奴は自分の目的のためなら娘すら利用する男だ」
「目的とは、何でしょうか?」
「恐らくは君の力だよ、田中君。奴はかつて『天然ダサ力』の研究にも手を出していた。君のような稀有な存在が現れたことを知り、その力を自分の『ダサリティ・ハッキング』技術と組み合わせ、シンジケートに復讐するか、あるいは自身が新たな支配者になろうとしているのかもしれん」
復讐? 支配? まるで悪の親玉のような話だが、ヘンテコリンは大真面目だ。
「手紙に指定場所などは書かれていたかね?」
「いえ、『会いたい』とだけ…」
「ふむ…これは『揺さぶり』だな。君たちの反応を見て次の手を打つつもりだろう。奴は計算高い。決して油断してはならん」
ヘンテコリンは、さらに驚くべき情報を付け加えた。
「実はな、田中君。君の『虚無ダサネス』に似た、しかしもっと制御された形で発現する『力』を持つ血筋が、歴史上、極々稀に存在したという記録があるのだ」
「血筋…? 私の家系に、そんなものが…?」田中は驚いた。
「断言はできん。記録も断片的で信憑性は低い。だがもしそれが事実なら、君の力は単なる突然変異ではなく、何か深い『系譜』に連なるものなのかもしれない。鈴木伝助はその『系譜』のことも研究していた可能性がある」
田中の力の秘密。みさきの父親との因縁。ねじれた系譜。物語はさらに複雑な様相を帯びてくる。
「どうすれば…? 父からの連絡を無視し続ければいいのでしょうか?」みさきが不安げに尋ねる。
「いや、それでは奴の思う壺だ。いずれもっと直接的な接触があるだろう」ヘンテコリンは言った。「今は耐える時だ。そして、来るべき『対決』に備えよ。田中君、君の力と、鈴木君、君の父への複雑な想い…その二つが重なる時、何かが起こるかもしれん。良くも悪くもな」
博士の言葉は謎めいているが、二人は覚悟を決めなければならなかった。鈴木伝助という最大の脅威、その背後にある「ダサ力」の深淵。それらに立ち向かう準備をしなければならない。
その夜、田中は自宅で一人、古いアルバムを開いていた。両親や祖父母の写真。そこに「ダサ力」の片鱗は見当たらない。本当に自分の力は「系譜」なのだろうか? ページをめくるうち、一枚の写真で手が止まった。今は亡き妻、優子と結婚したばかりの頃の写真。幸せそうな笑顔の二人。
(優子…君は、俺のこの力のことを、どう思うだろうな…?)
ふと、彼は思い出した。優子が生前、冗談めかして言っていた言葉を。
『あなたのおじいちゃん、たまにすごく変なこと言ってたのよ。「庭の石がね、夜中にこっそり場所を移動してる気がするんだ」とか。面白い人だったわね』
祖父? 庭の石? まさか…?
田中は自分のルーツに隠された可能性に初めて思い至った。もしそれが事実なら、自分とみさきが惹かれ合ったのは単なる偶然ではなかったのかもしれない。ダサ力を巡る、ねじれた、しかし抗えない因果によって結びつけられていたのではないか…?
鈴木伝助、影からの接触。それは田中とみさきの過去と現在、そして未来を繋ぐ重要な転換点となるのかもしれない。深淵の扉が、ゆっくりと開き始めていた。