鈴木伝助からの接触の後、数週間が過ぎた。次なる一手はなかなか訪れず、田中とみさきは不安を抱えながらも、日常を維持しようと努めていた。とはいえ、その静けさは嵐の前の不気味な静寂に過ぎなかった。
異変は、ある朝突然始まった。
田中が会社に出勤し自分のデスクに着くと、目の前の光景に違和感を覚えた。昨日までそこにあったはずのパソコンや書類が、全て奇妙なオブジェに変わっていたのだ。パソコンは巨大なブロッコリーに、書類の山は色とりどりの毛糸玉に、ホチキスは踊るタコのおもちゃに…。
「…………え?」
田中は目を擦った。寝不足で幻覚でも見ているのだろうか? しかし、何度見ても光景は変わらない。おまけに周囲の同僚たちは、その異常な光景に全く気づいていない様子で、いつも通りに仕事をしている。
「田中課長代理、おはようございます! ……って、どうしたんですか? デスクの前で固まったりして。もしかして、新しい『虚無』のインスピレーションですか!?」
佐藤君が声をかけてくるが、彼にもブロッコリーや毛糸玉は見えていないらしい。
(これは…幻覚じゃない…? まさか…!)
田中はDr.ヘンテコリンが語っていた「ダサリティ・ハッキング」を思い出した。人の精神に干渉し、現実認識すら歪める鈴木伝助が開発した禁断の技術。これが、それなのか?
田中は動揺を抑え、努めて平静を装う。
「…いや、何でもない。少し考え事をしていただけだ」
そう言ってデスクに座ろうとするが、椅子もまた巨大なチーズの塊に変わっていた。仕方なく立ったまま仕事をするふりをするものの、集中できるはずもない。
その日は一日中、田中の身の回りで奇妙な現実歪曲が続いた。会議室に入ると床がゼリーのように波打つ。廊下を歩いていると壁から突然巨大な魚の頭が突き出してくる。コピー機から印刷される書類は全て寿司の画像になっている…。その異常を認識できるのは田中だけで、他の誰も気づかない。これは明らかに田中だけを狙った精神攻撃だった。
(狙いは俺か…? それとも、みさきさんを揺さぶるための…?)
田中はすぐにみさきに連絡を取る。幸い、彼女の身の回りでは同様の現象は起きていないようだった。ヘンテコリンのペンダントが効いているのか、あるいは伝助の狙いはやはり田中自身の「力」なのか…。
「私のせいですよね…ごめんなさい…」電話口でみさきは自分を責める。
「違います。これは奴らの卑劣な罠です。私なら大丈夫ですから、心配しないでください」
田中は気丈に振る舞ったが、内心では言いようのない不安と不快感に苛まれていた。現実が足元から崩れていく感覚。これに耐え続けられるだろうか?
その夜、田中はヘンテコリンに助けを求めた。
「博士! ダサリティ・ハッキングが始まりました!」
「ふむ、やはり来たか…デン助め、ついに本性を現しおったな」ヘンテコリンの声は深刻だった。「それは『知覚改変型ハッキング』と呼ばれるものだろう。標的の脳内の現実認識プログラムに直接干渉し、幻覚や幻聴、あるいは現実そのものの歪みを体験させる。非常に高度で危険な技術だ」
「どうすれば対抗できるんですか!?」
「方法は二つある。一つは君自身の『虚無ダサネス』の力で、ハッキングの波動そのものを無効化すること。だが、それは相手のハッキング強度や君の精神状態に左右され、確実ではない。下手に抵抗すれば精神が破壊される危険もある」
「もう一つは?」
「もう一つは…ハッキングの『核』、つまり術者である鈴木伝助の居場所を突き止め、直接対決してハッキングを止めさせることだ」
直接対決。しかし伝助がどこにいるのか皆目見当もつかない。
「奴の居場所を探る手がかりなら、あるかもしれん」ヘンテコリンは意味深に言った。「君の『天然ダサ力』は一種の『共鳴現象』を引き起こすことがある。特に同じ『系譜』に連なる者のダサ力とは、量子もつれのように繋がりやすい。もし君が意識を集中させ、自らの『虚無』の奥底を探れば…デン助の『虚無』と共鳴し、その存在を感じ取れるかもしれん」
虚無で虚無を探る? まるで禅問答のようだが、田中にはそれしか手がかりがないと思えた。
「ただし、これも極めて危険な試みだ。君の精神がデン助のより強力で歪んだ『虚無』に引きずり込まれる可能性がある。実行するかどうかは君次第だ」
田中は迷った。だが、このまま精神攻撃を受け続けるわけにはいかない。何より、これ以上みさきを不安にさせたくない。
「やります」
彼は決意を固めた。
ヘンテコリンの指示に従い、田中は自宅で精神統一を試みた。部屋を暗くし、静かに座禅を組む(慣れないため足が痺れたが)。意識を、自分の内なる「虚無」へと沈めていく。
それは奇妙な感覚だった。思考が消え、感情が凪ぎ、ただ純粋な「無」が広がっていく。廃工場で感じた、あの「ボタン」の感覚。それをもっと深く、広大に…。
(意味がない…何もない…ただ、あるだけ……)
意識が拡散し、個としての輪郭が曖昧になっていく感覚。恐怖と同時に、ある種の解放感も感じられる。その果てしない「無」の水平線の彼方に、微かだが確実に存在する、別の「歪んだ虚無」の波動を感じ取った。冷たく、計算高く、深い闇を湛えた波動。
(…いた…! これが、鈴木伝助…!)
その瞬間、田中はその波動の「源」が発するイメージを断片的に捉えた。古い劇場…楽屋…鏡に映る歪んだ笑顔…そして、一つの言葉。
『…テンドー…劇場…』
天童劇場? 聞いたことのない名前だ。だが、これが手がかりに違いない。
田中は意識を現実へと引き戻す。全身にどっと疲労感が押し寄せるが、確かな手応えがあった。
すぐにヘンテコリンとみさきに連絡し、感じ取った場所の名前を告げる。「天童劇場」。
「…聞いたことがあるぞ!」ヘンテコリンが反応した。「かつてデン助が所属していた場末のコメディ劇場だ。随分前に閉鎖されたはずだが…奴め、そこをアジトにしているのか!」
場所は特定できた。次はいよいよ直接対決だ。
「田中さん、私も行きます!」みさきが力強く言った。「父との決着は、私自身がつけなければなりません」
「ですが、危険です!」
「分かっています。でも、あなた一人を行かせるわけにはいきません。それに…」みさきは少しだけ躊躇ってから続けた。「父に伝えたいことがあるんです。あなたの『光』が、もしかしたら父をも救えるかもしれない…そんな気がするんです」
田中は彼女の決意を尊重した。佐藤君も「僕も行きます! 課長代理の『虚無』と僕の『計算』! 二つのダサ力が合わされば無敵です!」と勝手に同行を決めた(戦力になるかは極めて疑問だが)。怜花も「私も行くわ。みさきを一人にはしておけない」と加わり、ヘンテコリンも「ふむ、面白くなってきた! 我輩も同行し、デン助の『ダサリティ・ハッキング』に対抗するジャミング装置(試作品)で援護しよう!」と乗り気だ。
こうして、奇妙な一行は鈴木伝助が潜む(と思われる)廃墟、「天童劇場」へと向かうことになった。歪む現実、試される絆。その先にあるのは破滅か、夜明けか。物語は最終決戦へ向けて大きく動き出す。田中一郎の「昇華」の真価が、今、問われようとしていた。