雪がちらつき始めた師走のある夜。田中一郎、鈴木みさき、藤堂怜花、佐藤君、そしてDr.ヘンテコリンの一行は、閉鎖されて久しい廃墟「天童劇場」の前に立っていた。古びたレンガ造りの建物は街の片隅で不気味な存在感を放ち、内部からは微かに人の気配と歪んだ「虚無」の波動が漏れ出ているのを、田中は感じ取っていた。
「…ここが、父の…」みさきは複雑な表情で劇場を見上げる。恐怖と怒り、微かな哀れみが入り混じった感情が、彼女の中で渦巻いている。
「行くぞ」ヘンテコリンが先導し、一行はきしむ音を立てる裏口から劇場内部へと侵入した。
中は埃っぽくカビ臭い。観客席はボロボロで、ステージ上には打ち捨てられた小道具が散乱している。ステージ中央にはスポットライトが当てられ、一人の男が立っていた。
年の頃は六十代だろうか。痩身で目は窪み、表情には深い疲労と狂気が刻まれている。それでもその佇まいには、どこか往年の芸人としてのオーラ(歪んだ形だが)も残っていた。彼こそが、鈴木伝助に違いなかった。
「……来たか、みさき。そして……君が、田中一郎君だな?」
伝助の声は嗄れていたが、奇妙な響きを持っていた。周囲の空間が彼の声によって微かに歪んでいるように感じられる。これが「ダサリティ・ハッキング」の力か。
「お父さん…!」みさきが声を震わせる。
「久しいな、我が娘よ。そして、ヘンテコリン…裏切り者の同志よ」伝助は不気味な笑みを浮かべる。
「道を違えたのは君の方だ、デン助!」ヘンテコリンが反論する。「その禁断の力で、これ以上何をしようというのだ!」
「決まっているだろう」伝助の目が狂気に光る。「この、くだらない『ダサ力』に支配された世界を、一度完全に『無』に還すのだ。その『虚無』の中から、私自身が新たな『意味』と『秩序』を創造する! 私こそが、真の『ダサ力ゴッド』となるのだ!」
壮大すぎる野望、あるいは誇大妄想。彼の放つ「虚無」の波動は強力で、一行は立っているだけで精神が蝕まれていくような感覚を覚える。
「そのためには、君の力が必要なのだよ、田中一郎君」伝助は田中に向き直る。「君の『純粋な虚無』は、私の『計算された虚無』と融合し、究極の『ダサリティ・カタストロフ』を引き起こす触媒となり得る。さあ、私にその力を差し出すのだ!」
伝助が手をかざすと、劇場全体がぐにゃりと歪み始めた! 壁が波打ち、天井から溶けたような何かが滴り落ち、ステージ上の小道具たちが意思を持ったかのように動き出す! まさに悪夢の光景。現実歪曲型のダサリティ・ハッキング!
「うわあああっ! なんですかこれは!?」佐藤君が悲鳴を上げる。
「ジャミング装置、起動!」ヘンテコリンが叫び、背負っていた奇妙な機械(やはり電子レンジに似ている)のスイッチを入れる。ブーンという音と共に青白い光が放たれ、現実の歪みがいくらか緩和されるが、伝助の力はそれを上回っているようだ。
「無駄だ! この劇場は私の『虚無空間』! ここでは私の力が絶対なのだ!」伝助が高笑いする。
田中は迫りくる脅威と精神攻撃に耐えながら、必死で対抗する言葉を探した。虚無には虚無でしか対抗できないのか? それだけが答えなのか?
その時、隣にいたみさきが、震えながらも一歩前に出た。
「お父さん!」
「なんだ、みさき?」
「お父さんが本当に求めているのは…世界を『無』にすることじゃないでしょう!?」みさきの声が劇場に響き渡る。
「何を言うか」
「本当は…ただ、誰かに認めてほしかっただけじゃないの!? 面白いって、すごいって、言われたかっただけじゃないの!? ダサ力なんてなくても、ただのお父さんとして、私に…!」
娘からの魂の叫び。それは「ダサ力」でも「虚無」でもない、純粋な「愛情」と「悲しみ」の言葉だった。
その言葉が、伝助の心の奥底にわずかに響いたのかもしれない。彼の表情が一瞬だけ、狂気ではなく深い孤独と後悔の色を浮かべたように見えた。現実の歪みがほんの少し揺らぐ。
その隙を、田中は見逃さなかった。彼は「虚無」で対抗するのではない、別の言葉を発した。彼のこれまでの人生、平熱で生きてきた日々、亡き妻との記憶、みさきと出会ってから感じてきた温かい感情…それら全てが凝縮されたような、不器用だがどこまでも誠実な言葉だった。
「………………………………………………………………………………………鈴木さん」
彼は、みさきの苗字をただ呼んだだけだった。その声には、彼の持つ全ての優しさ、労り、そして彼女への深い愛情が込められていた。
その「意味のある」、それでいて「純粋な感情」から発せられた言葉が、伝助の「計算された虚無」と「歪んだ渇望」で構築された虚無空間に、予想もしない「バグ」を生じさせたのかもしれない。
劇場全体の歪みが激しく振動し始める! まるで相反する力が衝突し、暴走を始めたかのようだ!
「な…なんだ!? 私のハッキングが…制御不能に…!?」伝助が狼狽する。
田中が放ったのは「虚無」ではない。彼の「昇華」した心から生まれた、「愛情」という名の、ある意味で究極の「意味」。それが、意味を否定しようとする伝助の虚無を内側から崩壊させ始めたのだ。
「お父さん!」みさきが叫ぶ!
「ぐ……う……みさき…………ゆうこ(田中の亡き妻の名前)………?」伝助は混乱し、過去の記憶がフラッシュバックしているらしい。
やがて激しい光と音と共に現実の歪みが収束していく。気づくと伝助は力なくステージに倒れ伏し、周囲の歪みも消えていた。彼のダサリティ・ハッキングは完全に無効化されたのだ。
ヘンテコリンのジャミング装置も壊れ、佐藤君は気絶し、怜花はみさきを支えている。田中は静かに倒れた伝助に近づいた。
「……負けた……のか……この私が…………ただの……愛情……だと……?」
伝助は力なく呟いた。その目からは狂気が消え、深い疲労とほんの少しの安堵のようなものが浮かんでいる。
「……みさき……すまなかったな…………こんな、父親で……」
それが彼の最期の言葉だったのか、意識を失ったのか…それ以上は動かなかった。