目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

7:平熱と微熱のフーガ、そして未来へ

鈴木伝助との決戦から数ヶ月が過ぎ、季節は春を迎えていた。あの天童劇場での出来事は、シンジケートの壊滅(伝助の逮捕と彼の証言により幹部が一網打尽になった)という形で一応の決着を見た。その真相…田中一郎の力が果たした役割やダサリティ・ハッキングの存在などは公にはならず、奇妙な集団ヒステリー事件として処理された。


世界は相変わらず「ダジャレがダサいほどモテる」という奇妙な法則の下で回り続けている。テレビでは「ダジャレ・キングダム」が人気を博し、ダサ力診断センターには行列ができている。


だが、田中一郎と鈴木みさきの世界は確実に変わっていた。


田中はスマイルフーズ経理部で、以前と変わらず黙々と数字を追っている。その表情にはかつての諦念はなく、どこか穏やかで自信のようなものすら漂う。同僚たちからの視線も、もはや「伝説のダサ力保持者」としてではなく、「なんだか最近、雰囲気が良くなった田中さん」という温かいものに変わっていた。佐藤君はあの一件以来、田中の「虚無」ではなく「愛情の力」に感銘を受けたらしく、「ダサさとは何か? 愛とは何か?」という哲学的な問いに目覚め、経理部の片隅で自作のポエム(壊滅的にダサいが、どこか優しい)を書き綴る日々を送っている。


みさきもまた、保育園で生き生きと働いていた。父親との決着は彼女にとって重荷を下ろす大きなきっかけとなった。完全に過去を許せたわけではないだろう。しかし前に進む決意が彼女を強く、美しくしていた。子供たちに向ける笑顔は以前にも増して輝き、田中に対しては相変わらずツンとした態度を見せることもあるが、その瞳には隠しきれない愛情が溢れている。ヘンテコリンからもらった怪しげなペンダントは、今もお守りとして時々身につけているようだ。


二人は穏やかな週末の午後、あのプラネタリウムを再び訪れていた。あの時と同じように隣に座り、満天の星空を見上げる。


「綺麗ですね」田中が言う。

「はい」みさきが頷く。


「……なんだか…………この星空を見ていると…………お昼に食べた、コンビニの……のり弁当のことを……ふと…………」

田中が言いかけると、みさきはくすくすと笑いながら彼の言葉を遮るように、そっとその手に自分の手を重ねた。


「……もう、いいです。田中さん」

「え?」

「あなたの言葉は、もう、ダサくても、虚無でも、何でもいいんです。それが、あなただから」

彼女は顔を赤らめながらも、しっかりと田中を見つめて微笑んだ。「私は、そんなあなたの言葉が……いいえ、そんなあなた自身が……………好き、ですから」


それは、これ以上ないほどストレートな愛の告白だった。


田中一郎、五十二歳。平熱だった男の心は、今、確かに温かい愛情で満たされている。彼の「昇華」とは特別な力を得ることではなく、特別な力を超えて、ただ一人の人間として誰かを愛し、愛されることだったのかもしれない。


この世界の奇妙な法則は変わらないだろう。ダサ力の謎も、Dr.ヘンテコリンの研究もまだ続いている。それでも、そんな奇妙な世界の中で、二人は確かに互いを見つけ、手を取り合ったのだ。


平熱と微熱が奏でる、不器用で滑稽で、しかしどこまでも愛おしいフーガ(遁走曲)。その旋律はまだ始まったばかり。二人の未来には、きっとこれからもたくさんの「ダサい」けれど温かい出来事が待っているだろう。そしてそれは、この奇妙な世界に差し込む、ささやかだけれど確かな希望の光なのかもしれない。


物語の幕はここで一度下りる。だが、彼らの人生の続きには、きっとゆるふわで予測不能で、そして心温まる新たな章が待っているはずだ。そう思わずにはいられない、優しい余韻を残して。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?