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序:平熱と微熱が織りなす、当たり前の奇跡について

鈴木伝助が引き起こした天童劇場での「虚無の決戦」から、季節は二度ほど巡り、街には柔らかい日差しと共に春の息吹が満ちていた。桜並木が薄紅色のトンネルを作り、公園では子供たちの明るい声が響く。世界は相変わらず「ダジャレはダサければダサいほど人を強く惹きつける」という奇妙な法則の下、時に熱狂し、時に困惑しながらも、呑気に回転を続けていた。


中堅食品メーカー「株式会社スマイルフーズ」の経理部に籍を置く田中一郎(53歳になった)と、にじいろスマイル保育園の保育士、鈴木みさき(変わらずアラサー)の関係も、あの激動の事件を経て新たな局面を迎えていた。それは嵐の後の静かな海のように穏やかで、水面下にはこれまでのどの時期よりも深く温かい潮流が生まれていた。


かつて「平熱の田中さん」と呼ばれた男の心は、もはや平熱ではなかった。かといって、制御不能な高熱でもない。心地よい微熱、あるいは焚き火の残り火のようなじんわりとした温もり。それが彼の日常を、そしてみさきとの関係を優しく包み込んでいた。


みさきの「ツン」の鎧も、田中という特異な存在の前では日に日にその角が取れ、柔らかなレース編みのように変化していた。もちろん、彼女のDNAに深く刻まれた羞恥心と天邪鬼は健在で、田中の常軌を逸したダジャレ(のような何か)には相変わらず顔を真っ赤にして拳をプルプルさせる。だが、その奥に潜む愛情と信頼は、春の陽光のように隠しきれず彼の心に届いていた。


「…田中さん、この…お弁当、作ったんですけど…た、卵焼きが! ちょっと焦げちゃっただけで! 別に、あなたのために早起きしたとか、そういうんじゃ、断じてありませんからね!」

差し出された彩り豊かな三段重(どう見ても二人分以上ある)に、田中は目を見張り、心からの笑顔で応える。

「ありがとうございます、鈴木先生。すごく美味しそうです。焦げた卵焼きも、きっと…あれですね、まるで夕焼け空に浮かぶ一筋の…えーと…醤油染みのような趣が…」

「しょ、醤油染みって何ですか! ひどい!」

顔を真っ赤にして抗議するみさきだが、その口元は明らかに笑っている。これが彼らの新しい「当たり前の奇跡」だった。


最近、二人は時折互いの家を訪れるようになっていた。田中の質素なアパートには、みさきが持ち込んだ可愛らしいクッションや観葉植物が少しずつ増え、殺風景だった部屋に彩りを与えている。みさきの女性らしいアパートには、田中がうっかり忘れていった地味な色の靴下や、読みかけの(なぜかヘンテコリン博士の『超常現象としてのダジャレ振動波形解析』といったタイトルの)本が、彼女のテリトリーに馴染もうと健気に佇んでいた。


そんなある週末の午後。みさきは田中のアパートで、珍しく腕によりをかけて手作りパンケーキを焼いていた。甘い香りが部屋中に漂い、田中はソファで(ヘンテコリン博士に半ば強引に渡された「ダサ力(ぢから)リバース・エンジニアリング・キット」の取り扱い説明書を眺めながら)その様子を微笑ましく見守っていた。


「できましたよ、田中さん! 自信作です!」

運ばれてきたのは、ふっくらと黄金色に焼かれたパンケーキのタワー。傍らにはメープルシロップとホイップクリーム、さらに細かく刻まれた福神漬けの小瓶が添えられている。

「えっと…福神漬け、ですか?」

「…っ! あ、あれは…その…冷蔵庫の奥にあったのが、たまたま手が滑って…! 気にしないでください!」

慌てて福神漬けを隠そうとするみさき。これもまた彼女なりの「ダサ力」表現なのかもしれない。


田中は苦笑しつつパンケーキにナイフを入れ、一口食べた。ふんわりとした優しい甘さが口に広がる。

「…美味しいです。本当に、美味しい…」

「…そ、そうですか…? なら、よかったですけど…」

みさきは照れながらも嬉しそうに頬を染める。その時、田中の脳内でいつもの不可解な連想回路が作動した。「パンケーキ」→「丸い」→「ボタン?」→「古い」→「記憶」→「押し入れの奥」→「秘密の入り口…?」。


彼の口から、いつもの「あれ」が、何の予兆もなく滑り落ちた。


「………この、パンケーキの表面の、この焼き加減というか……気泡の感じが…………なんだか…………昔、祖母の家の、古い箪笥(たんす)の奥の奥から出てきた…………木彫りの、小さなボタンの…………その裏側の、何とも言えない模様に…………似てる気がしますね…………。押したら、どこか……知らないお部屋に、ワープできそうな…………でも、口に入れると、とても甘くて安心する、みたいな…………不思議な感覚です…………」


箪笥の奥のボタンの裏模様。ワープ。そして甘い。


「………………」

みさきは完全に動きを止めた。数秒間の静寂。やがてその白い頬が、みるみるうちに林檎のように赤く染まっていく。

「…………た、箪笥……ボタンの裏……ワープ…………っ!」

わなわなと肩を震わせ、両手で顔を覆う。いつもの光景だ。


だが、その時、二人は同時に「それ」を見た。


田中の言葉と完全にシンクロするように、目の前のパンケーキの上にほんの一瞬だけ、小さな木彫りのボタンの幻影――3Dホログラムのようにも陽炎のようにも見える、半透明で微かに光るそれ――が、ふわっと浮かび上がり、すぐに掻き消えたのだ。


「「……………………え?」」


田中とみさきの声がハモった。

二人とも目を丸くして、パンケーキと互いの顔を交互に見つめる。

「…………い、今の……見ました…?」みさきが、信じられないという表情で呟く。

「……ええ…………確かに、ボタンのようなものが…………気のせい、でしょうか…?」田中も自身の目を疑っていた。


幻覚? 疲れているのか? しかし、二人同時に同じものを見た。福神漬けのせいではないはずだ。

みさきは、おそるおそるパンケーキを一切れ口に運ぶ。

「……味は、普通のパンケーキです……でも……」


田中はこの奇妙な現象に、言いようのない胸騒ぎを覚えていた。廃工場での「靴下」や「ボタン」の言葉が現実を歪めた(ように見えた)出来事とはまた質の違う、もっとささやかで、それでいて明確な「何か」の始まり。


「…………田中さん、もしかして…………また、何か……変な『力』が、目覚め始めてるとか……?」

みさきの声には不安と、ほんの少しの期待が入り混じっている。


「分かりません…。でも…」

田中は先ほどのボタンの幻影を思い出す。それは不気味というよりはどこか儚げで、不思議と嫌な感じはしなかった。


「……もし、本当に私の言葉が何かを引き起こしているのだとしたら……今のは、あまりにも……ゆるふわ、すぎませんか?」


ゆるふわすぎる「変異」。それが二人の新しい日常に投げ込まれた最初の、それでいて無視できない波紋だった。平熱と微熱が織りなすハーモニーに不意に紛れ込んだ、シャボン玉のような謎。その泡がやがて世界を包み込むほどの「ラプソディ」へと発展していくことを、この時の二人はまだ知る由もなかった。

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