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1:コトノハ狂騒曲のはじまり

パンケーキ上の「ボタンの幻影」事件は、その場では「気のせい」という形で一応の決着を見た。二人とも内心では「何か変だ」と感じつつも、あまりに突拍子もない現象ゆえに現実として受け止めることを無意識に避けたのかもしれない。日常は、あまりにも非日常な出来事に対し、時に優しい健忘という名のベールをかけるものだ。


その「ささやかな変異」は、しかしひとたび顔を出すと、まるで悪戯好きな子供のように彼らの日常のあちこちに奇妙な痕跡を残し始めた。


翌週の月曜日、田中が出勤すると、いつものように佐藤君が声をかけてきた。彼は最近、「ダサ力(ぢから)における愛と虚無の弁証法的アウフヘーベン」という壮大な(そして意味不明な)テーマに取り組み、自作のポエムノートのページ数を加速度的に増やしている。

「課長代理! おはようございます! 今日は一段と、その…『存在の耐えられないダサさ』がオーラとして滲み出てますね! もしかして、朝、牛乳を飲もうとしたら、コップが勝手にマトリョーシカ人形に変化して、中から次々と小さいコップが出てきて、最後に豆粒みたいなコップでしか牛乳が飲めなかった、とかそういう類の夢でも見ましたか!?」

佐藤君は自信満々のドヤ顔でまくし立てる。彼の「計算ダサ力」は相変わらず常人には理解不能な領域をひた走っていた。


田中はいつものように「いや、特に何も…」と返そうとした。その瞬間だった。


佐藤君の言葉に合わせて、彼の頭上に本当にマトリョーシカ人形と豆粒大のコップの幻影が、ふわふわとシャボン玉のように数秒間だけ現れ、パチンと弾けるように消えたのだ。それは極めて鮮明で、昨日のパンケーキ上のボタンよりも明らかに実体感を伴っていた。


「「…………!?」」


田中は息を呑んだ。佐藤君自身は気づいていないようだが、近くにいた女性社員の一人が「え? 何か今…飛んでませんでした?」と怪訝な顔をしている。


(やはり、気のせいではない…! 俺の言葉だけじゃない…佐藤君のダジャレにも反応した…? しかも、具現化した…?)


その日から田中は周囲を注意深く観察するようになった。すると、驚くべきことに同様の現象が散発的に、それでいて確実に起こり始めていることに気づいた。


会社の休憩室でOLたちが談笑している。

「ねえ、この前買ったワンピース、超お気に入りなんだけど、彼氏に『それ、なんだか交通誘導員のベストみたいだね』って言われちゃってー!」

その言葉と同時に、女性の頭上に蛍光色のベストの幻影が一瞬だけチラつく。

「うわっ、ひどーい! でもちょっと分かるかも! 私なんて昨日、手料理振る舞ったら『このハンバーグ、お前の愛情が重すぎて、鉄アレイみたいだ…』って言われたのよ!?」

ハンバーグと鉄アレイの幻影が、これまたふわふわと現れては消える。


「……なんなんだ、これは…」田中は愕然とした。人々の口にする「ダサい」言葉や「比喩表現」が、物理的な(ように見える)幻影として具現化し始めている。加えて、その現象を目撃できる人間とできない人間がいるようだった。今のところ明確に認識できているのは、田中自身とみさき(昨日のパンケーキの件から推測して)、時折、一部の感受性の強い人間だけのようだった。


その夜、田中はみさきに電話し、会社での出来事を報告した。

「鈴木先生、やはり昨日のパンケーキの件は気のせいではありませんでした。他の人々の言葉も具現化し始めているようです」

「ええっ!? 本当ですか!?」みさきの声は驚きと不安に満ちていた。「実は…今日の保育園でも、ちょっと変なことが…」


みさきが言うには、保育園の絵本の読み聞かせの時間、彼女が「大きなカブが、うんとこしょ、どっこいしょ! …と、抜けました!」と言った瞬間、手のひらサイズのカブの幻影が絵本から飛び出し、子供たちの頭上をくるくると舞って消えたという。子供たちの中には「わー!カブだー!」と喜ぶ子もいれば、ポカンとしている子もいたらしい。幸い大きな混乱にはならなかったが、みさきは背筋が凍る思いだったと打ち明けた。


「…いったい、何が起こっているんでしょう…? 世界がおかしくなってしまったんでしょうか…?」

「分かりません…。しかし、これはただ事ではない気がします」


田中とみさきは週末に改めて話し合う約束をし、電話を切った。田中は言いようのない不安と、同時にこの奇妙な現象の背後にある「何か」への強い好奇心を感じていた。


その週末、二人は例の「純喫茶 カオス」を訪れた。事情を話すにはDr.ヘンテコリンの知恵を借りるのが一番だと判断したからだ。相変わらず怪しげなオーラを放つヘンテコリンは二人の話を聞くと、いつになく真剣な表情で唸り始めた。


「ふむ…『コトノハ具現化現象(仮)』か…! これは興味深い…いや、極めて重大な事態かもしれんぞ!」

彼はカウンターの奥から古びた羊皮紙の巻物(のように見えるトイレットペーパーの芯に茶色い紙を巻き付けたもの)を取り出し、そこに奇妙な図形や数式を書き込み始めた。

「考えられる可能性はいくつかある。まず一つは、鈴木伝助が残した『ダサリティ・ハッキング』技術の暴走、あるいは第三者による悪用だ。もう一つは、先日の君たちの戦い――田中君の『虚無』と鈴木君の『愛情』が衝突し融合した際に発生した高次元エネルギーの余波が、現実世界の法則にバグを生じさせているというものだ」


「そして第三の可能性…」ヘンテコリンは声を潜め、目をギラリと光らせた。「それは、この『ダサ力世界』そのものが、より上位の次元に存在する『何か』によってプログラムされた仮想現実であり、現在、そのプログラムに致命的なエラー、あるいはバージョンアップに伴う予期せぬバグが発生しているというものだ!」


仮想現実!? バージョンアップ!? 話が飛躍しすぎて、田中もみさきも口をあんぐり開けるしかない。

「ちょ、ちょっと待ってください、博士! さすがにそれは…」


「いや、あり得ない話ではないぞ!」ヘンテコリンは興奮を抑えきれない様子で捲し立てる。「そもそも、『ダジャレがダサいほどモテる』などという法則自体が、物理法則を無視した極めて不自然なものだ! これが人工的に構築された世界だとしたら全ての説明がつく! そして、この『コトノハ現象』は、その世界の『壁』が薄くなり内部構造が露出し始めた兆候なのかもしれないのだ!」


彼の言葉は荒唐無稽に聞こえたが、この世界の奇妙さを思えば完全には否定しきれない説得力も持っていた。もしこの世界が作られたものだとしたら、誰が、何のために?


「いずれにせよ」ヘンテコリンは言った。「この現象は放置すればやがて深刻な混乱を引き起こすだろう。言葉が際限なく具現化し、現実と虚構の境界が曖昧になる…想像しただけでも恐ろしい。我々は、この現象の原因を突き止め対処しなければならない」


「どうすれば…?」みさきが不安げに尋ねる。

「まずは情報収集だ。この『コトノハ現象』が特に強く、あるいは特異な形で発現している場所や人物がいないか調査する必要がある。田中君、君の『虚無』の力は、そのような異常を感知するのに役立つかもしれん。鈴木君、君の保育園での子供たちの反応も重要な手がかりになるだろう。子供は時に、大人よりも純粋に世界の変異を感じ取るからな」


こうして田中とみさきは、Dr.ヘンテコリンの(胡散臭いが一応は科学的な)指導のもと、この奇妙な「コトノハ具現化現象」の謎を追うことになる。パンケーキの上の小さなボタンから始まったささやかな変異は、世界の根幹に関わるかもしれない壮大なミステリーへと、彼らを否応なく引きずり込んでいくのだった。二人の関係もまた、この新たな試練の中でさらなる深化を遂げていくのだろうか? それとも…?


平熱と微熱が織りなす物語は、言葉が乱舞する新たなラプソディの幕開けを告げていた。

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