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2:浮遊するコトノハ、と戸惑いのティータイム

「コトノハ具現化現象(仮)」――Dr.ヘンテコリンによってそう名付けられた奇妙な出来事は彼の予測通り、日に日にその範囲と影響力を増していった。最初はシャボン玉のように儚く現れては消える小さな幻影だったものが、徐々に明確な形と色彩、時には微かな手触りや香りまで伴うようになってきたのだ。


スマイルフーズ経理部では、相変わらず佐藤君が「ダサ力ポエム」の創作に没頭していた。彼が新作を朗読するたび、その言葉に対応した奇妙な物体がふわふわとオフィスに浮遊してはすぐに消える。

「おお、課長代理! 聞いてください、我が最新作!『真冬の冷凍みかん、それはカチコチの純情! 温めればトロけるが、それはもはや元のみかんにあらず!ああ、切なき不可逆変化、恋という名の熱伝導!』」

佐藤君の朗読と共にカチコチに凍ったみかん(表面には霜柱の幻影)が宙を舞い、やがて溶けてべちゃっとした(ように見える)みかんの残像に変わって消える。周囲の女性社員たちは「きゃー!冷凍みかんが!切ないー!でもダッサー!」と悲鳴に近い歓声を上げ、一部は実際にハンカチで目頭を押さえる始末。彼女たちの感情の昂りもコトノハの具現化を助長しているのかもしれない。


田中一郎自身が発する「虚無ダサネス」から生まれるコトノハは、やはり他とは一線を画していた。彼が何かを口走るとそこに現れるのは具体的な物体ではなく、むしろ「空間の歪み」や「色彩の喪失」、「無音」といった、より抽象的で感覚に直接訴えかけるような現象だった。

「……今日のこの曇り空……なんだか、押し入れの奥で丸まってホコリを被っている、古い毛布の色ですね……しかも、その毛布はなぜかいつもカビの匂いじゃなくて、遠い昔の潮風の匂いがするんです……不思議と……」

そう彼が呟くと窓の外の曇り空が一瞬だけ、セピア色を通り越してモノクロームに近い彩度の低い色調に変わり、どこからともなく微かな潮の香りが漂ってきてすぐに消える。それを認識できるのは今のところ田中と、ごく稀に他の誰かという程度だったが。


にじいろスマイル保育園では、みさきが特に頭を悩ませていた。子供たちは純粋で感受性が強いためコトノハ現象を敏感に察知し、無邪気に面白がってしまうのだ。

絵本の読み聞かせでは「ジャックと豆の木」の豆が巨大化し、園庭の天井を突き破るかのような幻影が出現(子供たちは大喜び)。「三匹のこぶた」ではオオカミが藁の家を吹き飛ばすシーンで、実際にわらのミニチュアが保育室を舞い散る(お掃除が大変)。


「もう! 田中さん! どうにかしてください、この現象!」

ある日のティータイム、みさきは珍しく田中のアパートを訪れ、紅茶を飲みながら(添えられたお菓子は彼女が「実験」と称して焼いた、カニカマとレーズン入りのスコーンだった。味は…まあ、うん)真剣な顔で訴えた。

「どうにかして、と言われましても…私にも原因が…」田中は困惑するしかない。


「子供たちがコトノハ遊びに夢中になっちゃってるんです。『バナナ!』って叫んでバナナの幻を出したり、『ウンチ!』って叫んで茶色いフワフワした何か(!)を飛ばしたり…もう、収集がつかないんですよ!」

みさきは頭を抱える。特に健太は叔父である田中の「才能」を(本人は無自覚だが)微かに受け継いでいるのか、彼の発する意味不明な言葉からも時折、奇妙で大きなコトノハが出現し他の園児たちを熱狂させてしまうようだった。


「…やはり一度ヘンテコリン博士のところで、この現象の特性と何かコントロールする方法がないか、本格的に調べてもらう必要がありそうですね」田中は真剣な表情で頷いた。


その週末、田中とみさきは再び「純喫茶 カオス」の扉を叩いた。今回は藤堂怜花も「友人として見過ごせない」と同行し、なぜか佐藤君まで「僕のダサ力もこの現象の一因なら解明に協力するのは当然の義務です! あと、博士の『時空歪曲フレーバーティー』、気になります!」と付いてきてしまった。


「ふむ、やはり事態は進行しているようだな」

ヘンテコリンは彼が「コトノハ・アナライザー(試作)」と呼ぶ、洗濯バサミとアルミホイルと大量のLEDで作られたヘッドギアを装着し、神妙な顔で紅茶(みさきは頑なにコーヒーを注文した。カニカマスコーンのトラウマが蘇ったのかもしれない)を啜っていた。

「この『コトノハ具現化現象』、いくつかのパターンが見えてきたぞ。言葉の『感情の強度』と『ダサ力指数(あるいは虚無指数)』が高いほど、具現化するコトノハも強く明確になる傾向がある」


「佐藤君のような『計算ダサ力』の場合、本人の『これがダサいはずだ!』という強い思い込みと、周囲の『ダサい!』という期待感が共鳴し、比較的派手で具体的なコトノハが生まれやすい。ただし持続時間は短く、どこか空虚さを伴うことが多い」

佐藤君は「おお! さすが博士! 僕のダサさの本質を見抜いている!」と感心している。


「一方、鈴木君のような感情豊かな読み聞かせや子供たちの純粋な言葉からは、物語性や感情に根差した比較的無害で温かいコトノハが生まれやすい。これは『エモーショナル・コトノハ』とでも呼ぼうか」

みさきは少し安堵したような表情を浮かべる。


「そして問題は、田中君、君の『ネイティブ虚無ダサネス』だ。君の言葉から生まれるコトノハは具体的な形を持たないことが多いが、空間や感覚に直接作用する。それはこの世界の『根本的な法則』に干渉する可能性を秘めている。場合によっては非常に危険な…」

ヘンテコリンの目が鋭く光る。


「でも」と怜花が冷静に口を挟んだ。「田中さんの言葉のコトノハは、悪意を無力化するような効果もあったのでは? 廃工場での事件のように」

「その通りだ、藤堂君。彼の『虚無』は悪意や計算といった『過剰な意味』を中和し、本来の『無』の状態へと回帰させる力を持つ。だがそれは対象が悪意である場合に限る。もし対象が、この世界そのものの『意味』だったとしたら…?」

博士の言葉に一同は息を呑んだ。


「このコトノハ現象が、もし鈴木伝助あるいは『シンジケート』の残党が仕掛けたものだとしたら…彼らの狙いはこの世界の『ダサ力がモテる』という根幹法則そのものを破壊し、全てを無意味化、あるいは別の法則に書き換えることなのかもしれん」


世界の法則を書き換える? そんなことが可能なのか?

「そのためには強力な『触媒』が必要だ。そしてその最有力候補が…田中君、君の『虚無』の力というわけだ」


一同の間に重苦しい沈黙が落ちる。ティーカップの中で、紅茶の湯気が虚しく立ち上っていた。

田中は自分の力が想像以上に大きな、そして危険な可能性を秘めていることを改めて痛感した。その力とどう向き合い、この奇妙な事態をどう乗り越えていくのか…。答えはまだ見えない。ただ隣に座るみさきの、不安げながらも彼を信じようとする眼差しだけが、暗闇の中の小さな灯火のように感じられた。


戸惑いのティータイム。それは世界規模の(かもしれない)異変と個人の小さな想いが交錯する、奇妙なラプソディの第二楽章の始まりだったのかもしれない。そして、この混乱の背後に潜む真の「指揮者」の姿は、まだ誰も知らない。

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