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1:目覚まし時計の片思い、あるいは冷蔵庫の哲学的囁き

春爛漫。田中一郎(53)と鈴木改め田中みさき(変わらずアラサーだが、幸福度がメーターを振り切っている)の新婚生活は、桜色の綿あめのようにふわふわと甘く、それでいて時折、予想外のスパイス(主に福神漬け)がピリリと効いてくる、そんな愛おしい日々だった。例の「コトノハ具現化現象」も、あのジョーク・パレスでの一件以降はすっかり鳴りを潜め、世界は(相変わらずダジャレがダサいほどモテるという点を除けば)驚くほど平和を取り戻していた。人々は一時的に言葉が物質化する奇妙な祭りの日々を、まるで集団で見た夢のように語り、徐々に日常の些事に埋もれていった。


…かに、思われた。


ある朝、田中家の目覚まし時計がけたたましく鳴り響いた。それは田中が独身時代から愛用している、何の変哲もないデジタル時計だ。ところが、そのアラーム音はいつもと違っていた。

「ピピピ…ピピピ…イチローサァン…ダイスキ…ピピ…デモ、ミンナニハ…ナイショダヨ…ピピピ…」

電子音に混じって、明らかに合成音声ではない、どこか切なげで、それでも全力で田中への愛を囁く乙女の声が聞こえてくるのだ!


「「……………………え?」」


同時に飛び起きた田中とみさきは顔を見合わせる。みさきの頭上にはクエスチョンマークとハートマークと怒りマークが混じったようなコトノハが点滅していた。

「た、田中さんっ! この時計…まさか、あなたが何か改造して…!?」

「し、していません! 断じて! でも確かに、何か言ってますね…『ダイスキ』とか…」


よく見ると、デジタル表示の時刻の横に、ドット絵で描かれた小さなハートマークが健気に点滅している。そのハートマークは、明らかに隣で寝ているみさきに対し「ご、ごめんなさい…でも、譲れないんです…!」と訴えかけるようなオーラを放っていた。


これが、二人が再び直面することになる「進化したコトノハ現象」の、あまりにもゆるふわで、それでも深刻な(主にみさきの機嫌にとって)幕開けとなった。


「コトノハ具現化現象Ver.2.0」、あるいはヘンテコリン博士が後に「オブジェクト・エモーション・シンクロニシティ(OES現象)」と名付けるこの新しい異変は、以前のように言葉が直接的に物質化するのではなく、無機物であるはずの「モノ」が特定の言葉や感情に呼応し、まるで意思や感情を持ったかのように振る舞い始めるというものだった。それも、極めて限定的に、多くの場合、非常に「ダサい」形で。


その日から、田中家の家電たちは次々と「恋」に落ち始めた。


朝食のトーストを焼こうとすれば、ポップアップトースターが「アタシ…アナタ(田中)ノタメナラ…ドンナニコンガリトデモ…ナッテミセルワ…!」と情熱的なボイス(なぜか宝塚の男役風)を発し、焼きあがったトーストには、おぼつかない筆跡で「SUKI♡」と焦げ目がついている。しかし、微妙に焦げすぎているのが玉に瑕だ。


掃除をしようと掃除機を手に取れば、ノズル部分が意思を持ったようにクネクネと動き出し、田中の足元にすり寄っては「ゴロゴロゴロ…(吸引音ではない、明らかに猫の喉を鳴らす音)」と甘えてくる。おまけに吸い込んだゴミを田中のスリッパの中にこっそりプレゼントとして置いていく始末。迷惑だ。


極めつけは冷蔵庫だった。扉を開けるたびに、内部のLEDライトがムーディーに明滅し、中からバリトンボイス(どこか哲学的な響き)でこう囁いてくる。

「キミガ…ドアヲアケルタビ…ワガココロハ…霜柱ノヨウニ…トケテイク…ダガソレコソガ…イキルヨロコビ…デアロウカ…タマゴヨ…オマエモソウオモワナイカ…?」

冷蔵庫内の卵たちが一斉に「コケッ…(激しく同意)」と返事をするコトノハが飛び交う。非常にシュールである。


「な、なんなんですか、この家は! モノたちが全員、田中さんに求愛してくるなんて! 不愉快です!」

みさきはぷりぷり怒りながらも、目覚まし時計(最近は田中の枕元に寄り添い、みさきに嫉妬の視線を送っている)に「あなたなんかイチローさんの隣にふさわしくないわ!」と説教を始めていた。これもまた、一種のコトノハかもしれない。


異変は田中家だけに留まらなかった。会社に行けば、田中専用のコーヒーカップが、彼が席を外すたびに寂しげに「ポツーン…」という吹き出しのコトノハを出し、彼が戻ると嬉しそうにカタカタと小刻みに震える。コピー機に至っては、田中が近づくと「今日も素敵ですね、田中様…♡(用紙トレイからハート型の紙吹雪が舞う)」と業務に支障をきたすレベルでアピールしてきた。


「課長代理…最近、ウチの備品たちがやけにアナタに懐いてませんか? まるで…古のダサ力(ぢから)使いに仕える使い魔みたいですよ…! 僕もいつか、僕のポエムに感動して自動で文字を綴る万年筆とか欲しいです!」

佐藤君は目を輝かせていたが、田中にとってはただただ奇妙で困惑する日々が続いた。この現象は「ダサ力」と関係があるのか、それとも全く別の何かなのか?


週末、二人は再び「純喫茶 カオス」のヘンテコリン博士のもとを訪れた。一部始終を聞いた博士は、目をカッと見開き、いつもの電極付きヘッドギアを激しくショートさせながら叫んだ。

「これだ! これこそが『究極の量子もつれ』! 『万物照応(アニマ・ムンディ)』のダサ力バージョンだ! モノたちが特定の強い感情波動(主に田中君の無自覚なフェロモンダサ力)に共鳴し、擬似的な意識と愛情表現を獲得し始めたのだ! なんというロマンティックで厄介な現象であろうか!」


博士が言うには、以前のコトノハ具現化現象が「言葉」そのものに焦点を当てていたのに対し、今回は「モノ」に宿る概念や情報、そしてそれに触れる人間の「感情」が複雑に絡み合い、時空を超えた(?)コミュニケーション(のような何か)を引き起こしているのだという。とりわけ「愛」という感情は最も強いコトノハ・エネルギーを発生させるため、このような現象が誘発されやすいのだ、と博士は締めくくった。


「つまり…ウチの家電たちは、本気で私に恋を…?」田中は青ざめる。

「その通り! しかもこれは氷山の一角かもしれんぞ! もしこの現象が世界中に広がれば…全てのモノが感情を持ち、愛を囁き、嫉妬し、時にはストライキを起こすかもしれん!想像してみたまえ!信号機が好きな交差点以外は青にしたくないと言い出したり!ATMがお気に入りの利用者以外には現金を引き出させなかったりする世界を!」

それは確かにカオスだ。


「どうすれば、この現象を止められるんですか!?」みさきが悲痛な声を上げる。「うちの洗濯機なんか、最近田中さんのワイシャツだけ異常に丁寧に、まるで愛撫するように洗ってて…私のブラウスは手抜きなんです!不公平です!」

洗濯機にまで嫉妬するとは、みさきも相当である。


「ふむ…根本的な解決策はまだ見えん。しかし一つ言えるのは、この現象は君たち二人の『絆』の強さと、田中君の『平熱でありながらも周囲を惹きつける微熱のダサ力』が異常な相乗効果を生んでいる可能性が高いということだ。ある意味、君たちの愛が世界を、ほんの少し…おかしな方向へ『進化』させてしまったのかもしれないな!」

ヘンテコリンはニヤリと笑った。


「そんな…私たちの愛が、家電をストーカーに…?」田中は頭を抱える。

ゆるふわな日常に訪れた、ゆるふわすぎる、しかし確実に世界の根幹を揺るがしかねない新しい異変。田中とみさきは、モノたちの暴走する片思いと、冷蔵庫の深遠なる哲学的問いかけに翻弄されながら、この奇妙なラプソディの新たな楽章に否応なく巻き込まれていくのだった。


(TT) ←(たぶん、田中一郎の困り顔であり、トースターの焦げたハートの形)

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