亡き妻・優子からの(とされる)月からの手紙――それは田中一郎の心に、これまでのどんなコトノハ現象よりも深い衝撃と混乱、そしてほんのわずかな、無視できない「まさか」という期待を呼び起こした。みさきもまた、夫の亡き妻からの(しかも月面からの)コンタクトという超展開に、嫉妬よりも先に「一体全体どういうことなの!?」という純粋な困惑とSF的興味が勝っていた。
「優子さんが…月で…? でも、彼女は病気で…それに、コトノハとかダサ力(ぢから)とか、そういうのとは一番縁遠い人だったはずなのに…」田中は頭を抱える。
その手紙の真贋は不明だ。何者かによる悪質な悪戯、あるいは鈴木伝助やシンジケート残党の新たな罠という可能性も高い。だが、優子の筆跡によく似た文字や「一郎さん」という呼びかけ、そして「電子レンジ(優子の形見でもある)」という媒体が、田中の心を揺さぶった。
「まずは冷静に状況を整理するのじゃ!」
事態を重く見たDr.ヘンテコリンは、純喫茶カオスの地下ラボに田中、みさき、怜花、佐藤君を緊急招集した。今回の議題の特殊性を鑑み、異例の「参加者」をさらに加えることを提案する。それは、田中一郎に熱烈な想いを寄せる「モノ」たちの代表である。
「彼らOES(オブジェクト・エモーション・シンクロニシティ)存在も、この月からのメッセージに何かを感じているかもしれん。彼らの『声』を聞くことが解決の糸口になるやもしれんからな!」
こうして、カオスの地下ラボでは前代未聞の「緊急家族会議(対家電・動物・その他一同)」が開催されることとなった。参加メンバーは以下の通り。
人間代表:田中一郎、田中みさき、藤堂怜花、佐藤君、Dr.ヘンテコリン
家電代表:田中家の目覚まし時計(ICHIRO-LOVE)、ポップアップトースター(情熱の焦げ目)、掃除機(ゴロゴロスリスリ)、冷蔵庫(哲学者)、問題の手紙を発見した電子レンジ(哀愁のチン)
動物園代表(代理):動物園のライオンから送られてきた鬣(たてがみ)で作った小さな人形(ライオンハート君)、ペンギンが涙ながらに託した氷の彫刻(ペンギンの純情)
その他代表:田中一郎にプロポーズした七味唐辛子の小瓶(七味G)、手紙をくれた石灯籠のミニチュア(苔むす乙女心)、クレヨン一同(代表の赤)
もちろん、彼らが物理的に喋るわけではない(目覚まし時計や冷蔵庫は例外だが)。彼らの「意思」や「感情」を、ヘンテコリンが開発した「コトノハ・トランスレーター(試作X。見た目は子供銀行の紙幣に電極を付けたもの)」を介して翻訳し、モニターに文字として表示するという、相変わらず怪しげなシステムだ。
会議が始まると、まず家電たちが口々に(モニターに)意見を表明した。
目覚まし時計:「イチローサンガ…ツキニイクナラ…ワタシモ…ツキマデツイテイキマス…!(訳:一郎さんが月に行くなら私も月までついていきます!)」
トースター:「ツキデモ…アツアツノ…アイヲ…アナタニ…!(訳:月でもアツアツの愛を貴方に!)」
冷蔵庫:「ツキトハ…ソモソモ…チキュウノエイセイ…シカシ…エイエンノアイノショウチョウトモ…ムジュンコソガウチュウノシンリ…タマゴヨ…(訳:月とはそもそも地球の衛星…しかし永遠の愛の象徴とも…矛盾こそが宇宙の真理…卵よ…)」卵は無言だ。
電子レンジは「チン…チン…(訳:優子様…本当に…?)」と悲しげに繰り返すばかり。
動物代表は、よりストレートだった。
ライオンハート君:「グルルル!(イチローヲツキニワタスナ!ワレトチキュウニイロ!)(訳:イチローを月に渡すな!俺と地球にいろ!)」
ペンギンの純情:「(ピキピキと溶けながら)タナカサン…イカナイデ…(訳:田中さん…行かないで…)」※感情が高ぶりすぎて急速に溶けてしまった。
その他のモノたちも騒然としており、会議は早くもカオス状態だ。
「こんなモノたちと家族会議なんて…!」みさきは頭痛を堪えながら呟く。
「まあまあ、鈴木君。彼らの田中君への想いは本物だ。そして時には、常識を超えたモノの直感が事態を打開することもあるのだ」ヘンテコリンは至って真面目である。
そんな中、佐藤君が突然立ち上がり、自作のポエムを高らかに詠み上げた。
「おお、月よ! 白き額縁(ひたいぶち)に飾られた、謎めくラブレター! 差出人は亡き妻か、はたまた餅つく兎の罠か!? 我らが一郎、今こそ決断の時! 行くも地獄、退くも天国(家電ハーレム的な意味で)! そのダサ力、月面でも輝かせよ!」
詠み終わると、佐藤君の頭上から「月に叢雲(むらくも)、花に風(物理的な風が吹いて書類が舞う)」という渋いコトノハが出現し、彼自身は満足げに「やはり僕のポエムは宇宙の真理と繋がっている…!」と悦に入っている。ある意味、最強かもしれない。
怜花は冷静に状況を分析し、一つの可能性を指摘した。
「手紙が優子さんの筆跡に似ているのなら、それは優子さんの『記憶』や『感情の痕跡(コトノハ・エコー)』が何らかの形で月に保存され、今回のコトノハ現象によって活性化したのかもしれないわ。あるいは、何者かがそれを悪用して…」
「うむ、あり得るな」ヘンテコリンも頷く。「鈴木伝助が研究していた『原初コトノハ』には、人の記憶や魂すら記録し転写する力があったとも言われている。もし月面にかつての文明の遺産があり、そこに優子さんのコトノハ・エコーが…」
その時だった。地下ラボの大型モニターが突然ノイズを発し、そこに奇妙な映像が映し出された。それは月の表面のようであり、クレーターの中には明らかに人工的な構造物――ドーム型の基地のようなもの――が見える。そして、その基地の入り口らしき場所から、誰かがこちらに向かって手を振っている。拡大すると…それは、間違いなく田中優子の面影を残した、しかしどこか半透明で儚げな姿だった。
「「優子さん!?」」田中とみさきは息を呑む。
映像の優子(らしき存在)は微笑み、口を動かしている。音声はないが、唇の動きは明らかにこう言っていた。「イチローサン…アイ…タ…イ…」
映像はすぐに途切れ、モニターは砂嵐に変わった。
「今のは…! 間違いなく優子さんの…! でも、何かが違う…」田中は混乱する。
「人工的な妨害電波の痕跡がある…!」ヘンテコリンが叫ぶ。「何者かが意図的にこの映像を見せ、そして遮断した! やはり、これは罠の可能性が高い! 我々をおびき寄せようとしているのだ!」
だが、田中は決意を固めていた。あれが本物の優子であろうとなかろうと、罠であろうと、行かなければならない。この目で確かめなければ。もしそれが優子さんの魂の叫びなのだとしたら、応えなければならない。
「…行きます。月に」
「田中さん!」みさきが彼の腕を掴む。その目には不安と、彼を一人にはしないという強い意志が宿っていた。
「…馬鹿な! どうやって月へ行くというのだ! 我々には宇宙船など…」ヘンテコリンが言いかけた時、会議に参加していた(しかしずっと黙っていた)石灯籠のミニチュア(苔むす乙女心)が、コトノハ・トランスレーターを通して初めて発言した(文字で)。
『…ワタクシノ…ケイフヲタドレバ…ツキノイシト…ツナガッテオリマスノ…タマニ…ムショウニ…モチツキシタクナルノデスワ…(訳:私の系譜を辿れば月の石と繋がっておりますの…たまに無性に餅つきしたくなるのですわ…)』
「なんですって!?」ヘンテコリンは目を剥いた。「石灯籠の材質…それはもしかして『月長石(ムーンストーン)』か!? しかも、コトノハ・エネルギーを帯びた特殊な!? ならば…!」
博士は狂ったようにホワイトボードに数式を書きなぐり始めた。
「月長石、田中君の虚無ダサ力、みさき君の愛情コトノハ、そして…我が最終発明『コトノハ推進式・次元跳躍型湯豆腐(試作Ω)』を組み合わせれば、理論上は月への瞬間移動(コトノハ・ワープ)が可能かもしれん!」
「湯豆腐で月へ!?」一同は再び絶句。
「コトノハ・ワープ」には、強大なコトノハ・エネルギーが必要だ。そのエネルギー源として、ヘンテコリンは「田中一郎への愛を叫ぶモノたちの合唱」を提案した。目覚まし時計、トースター、掃除機、冷蔵庫、電子レンジ、動物園の代理たち、七味唐辛子、クレヨン一同…彼らの愛のコトノハ(と、ついでに佐藤君の絶叫ポエム)を結集させ、増幅し、それを湯豆腐エンジン(!)に注ぎ込むのだという。
もはやSFを通り越してギャグ漫画のようだが、他に方法はなかった。田中とみさきは互いの顔を見合わせ、力強く頷いた。
緊急家族会議は、いつのまにか「ヘンテコリン式・愛とダサ力の月面渡航計画」の決起集会へと変わっていた。地球の運命(?)と田中一郎の愛の行方を乗せ、奇想天外な湯豆腐宇宙船は月を目指すことになるのだろうか?
そして、月で待つのは本当に優子なのか? それとも冷酷な罠か?
ゆるふわな物語は、ついに大気圏を突破し、シュールでロマンティックな月面決戦(仮)へと突入する!
(TT) ←(たぶん、月を見上げる期待と不安の涙と、湯豆腐エンジンの湯気)