目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

囁く絵本と、交差点の詩人たち

1:パンケーキが紡ぐ序曲、あるいは日常という名の奇書

月面での壮大な(そして湯豆腐と布団と七味唐辛子が乱舞した)大冒険から季節は巡り、田中一郎(53)と新妻みさき(愛情過多により若干ツン成分減少、デレ濃度8割増し)の新婚生活は、春の陽だまりの中で干したての布団のようにふかふかで温かく、時折みさきの焼く実験的パンケーキ(例:納豆とチョコチップ入り)の香りがアクセントを添える、至って平和なものだった。少なくとも表面上は。


あの「オブジェクト・エモーション・シンクロニシティ(OES現象)」――モノが感情を持ち、田中に熱烈アプローチを繰り返した騒動――も、ルナ・ラビットΩの遠隔操作(とヘンテコリン博士の『対物恋愛感情中和スプレー(主成分:玉ねぎの涙)』の散布)によって、地球規模ではほぼ完全に収束していた。田中家の家電たちも今ではすっかり大人しくなり、目覚まし時計は普通の電子音で彼を起こし、冷蔵庫も哲学的な囁きをやめ、ただ黙々と食材を冷やしている(時折、卵のパックが寂しげにカタカタと音を立てるコトノハを発するが、それはご愛嬌だ)。


…はずだったのだが。


その日曜日、みさきはキッチンで腕によりをかけてパンケーキを焼いていた。今日のテーマは「春色の祝福、そして未知との遭遇」らしく、生地には桜の塩漬けと抹茶、加えて何故かタバスコが数滴練りこまれている。田中はリビングのソファで新聞を読んでいた。キッチンから漂う甘くスパイシーで、どこか和風な香りに、期待と不安が入り混じった複雑な表情を浮かべていた。


「田中さーん! できましたよー! 名付けて『春霞(はるがすみ)むせび泣きパンケーキ~桜吹雪と涙のタバスコを添えて~』です!」

みさきが運んできたパンケーキは、確かに美しい薄緑色で、桜の塩漬けがアクセントになっている。だが、添えられたのはメープルシロップではなく、明らかに追いタバスコ用の小瓶と、ホイップクリームに偽装した真っ白なマシュマロクリーム(表面には微かにココアパウダーで「LOVE♡ICHRO FOREVER?」と書かれているように見えなくもない)だった。


「……『むせび泣き』というからには、やはり辛いのでしょうか…」田中は恐る恐る尋ねる。

「さあ? どうでしょう? でも、愛情はたっぷりですよ! 隠し味に昨日の残りの…ひじきの煮物も少しだけ…うふふ」

みさきは悪戯っぽく笑う。隠し味のレベルを超えている。


田中は意を決して一口食べた。桜の香りと抹茶の苦味、時間差で襲ってくるタバスコの刺激、最後に遠くの方で微かに主張するひじきの滋味。それはカオスでありながら、なぜかほんの少しだけ美味しい…ような気もする、まさに「みさき味」のパンケーキだった。


「…い、意外と…イケますね…! この、口の中で繰り広げられる、味覚の…えーと…異種格闘技戦というか…まるで、図書館の静寂の中で、突然サンバカーニバルが始まったような…衝撃と、不思議な調和…」

田中がいつものように脳内の連想を言葉にした、まさにその瞬間だった。


パンケーキの皿の横に置かれていたみさき愛用の絵本――『ぐりとぐら』や『はらぺこあおむし』といった古典的名作――が、独りでにパラパラとページをめくり始めたのだ。各ページから、物語の主人公たちの小さな幻影(コトノハ)がシャボン玉のように次々と飛び出し、リビングをふわふわと漂い始めたではないか!

ぐりとぐらが焼いた巨大なカステラの甘い香りのコトノハ、はらぺこあおむしが食べた果物たちの瑞々しいコトノハ、『大きなカブ』からは「うんとこしょ!どっこいしょ!(だがカブ本体は出ない)」という掛け声のコトノハまで飛び交い、部屋は一瞬にしてファンタジーな絵本のワンシーンのようになった。


「「…………………………へっ?」」


田中とみさきは、口にパンケーキを(あるいはタバスコを)含んだまま固まる。

「た、田中さんっ! これは…! あのコトノハ現象の…再来ですか!?」

「し、しかし、モノが感情を持つOES現象とは明らかに違う…絵本から物語が…?」


子供たちはいない。周りに他の人間もいない。なのに、田中の「言葉」に呼応するように、みさきの愛用する「絵本」から「物語そのもの」が具現化した。これは一体…?

戸惑う二人の目の前で、コトノハのぐりとぐらは小さなフライパン(幻影)を振ってパンケーキのミニチュアを作り始め、はらぺこあおむしはみさきの追いタバスコの瓶に興味津々で這い寄り、大きなカブの掛け声コトノハはリビングのカーテンを引っ張ろうとしていた。まさにカオスだ。


この「絵本から物語が飛び出すパンケーキ事件」は、平穏を取り戻したはずの田中夫妻の日常に、再び巨大なクエスチョンマークとエクスクラメーションマークを同時に叩きつける、新たな異変の始まりを告げていた。それは、ゆるふわで奇妙、そして世界の根幹を揺るがすかもしれない、壮大なラプソディの序曲に他ならなかった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?