虚構図書館の心臓部、「ナラティブ・コア」が不気味に脈動し、「禁断の詩篇」から放たれる負の物語エネルギーとUPS(アンダーグラウンド・ポエッツ・ソサエティ)の詩人たちの呪詛コトノハが、田中一郎と仲間たちを絶望の淵へと追い詰めていた。みさきの愛情コトノハ・バリアも、ヘンテコリン博士の防御フィールドも限界寸前。佐藤君はネギとコンニャク色の星(のコトノハ)を見て気絶中だ。
田中自身も、「禁断の詩篇」の邪悪な囁きと自らの「虚無ダサネス」の衝突によって意識が混濁し、悪夢と現実の狭間を彷徨っていた。このままでは彼の精神は完全に破壊され、その「虚無」はUPSによって世界の物語を破滅させるための道具として悪用されてしまうだろう。
(…だめだ…みさきさんを…守らなきゃ…でも…眠い…なんだか…あったかいお布団で…もう一度…ぐりとぐらのカステラ…食べたいなぁ……)
朦朧とする意識の中、田中の脳裏に浮かんだのは絶望や恐怖ではなく、ごく平凡で温かい日常の断片と、子供の頃に読んだ絵本の記憶だった。そして、ポケットの中で熱く輝く月面の石ころ――ルナ・ラビットΩが託した『コトノハの種』――が、彼の純粋な願いに呼応するように、優しい光と共に彼の内に眠る新たな力、『物語調律能力(ナラティブ・チューニング)』を目覚めさせたのだ!
「んにゃ……むにゃ……」
田中は、まるで心地よい眠りの中で寝言を呟くように、無意識のうちに言葉を紡ぎ始めた。それは英雄の雄叫びでも、賢者の箴言でもない。あまりにも脱力しきった、ゆるふわで、どこまでも優しい、そして底抜けに「ダサい」寝言だった。
「……今日の晩御飯は……ハンバーグがいいなぁ……。でも、ソースは……ケチャップじゃなくて……あの…縁日の屋台で売ってる……りんご飴の……あの、赤い……ベタベタしたやつ…………で、ハンバーグの上には……なぜか……小さな…七色の傘が……いっぱい…刺さってて…………それを食べると……口の中で……シャボン玉が…ぽこぽこ…生まれるんだ…………うーん……」
ハンバーグとりんご飴ソースと七色の傘とシャボン玉。
意味不明な夢の光景。だが、その言葉が発せられた瞬間、虚構図書館の空気が一変した!
五七五麿やUPSの詩人たちが放っていた禍々しい呪詛コトノハや「禁断の詩篇」の負のエネルギーが、まるで春の陽光に触れた雪のように、急速にその力を失い始めたのだ。代わりに、田中一郎の寝言から生まれた「優しくて美味しい(かもしれない)物語」のコトノハ――ふわふわのハンバーグ、キラキラのりんご飴ソース、カラフルな傘、虹色のシャボン玉――が、図書館全体を優しく包み込んでいった!
「な、なんだこれは!? 我が『絶望の鎮魂歌』が…ハンバーグのコトノハに上書きされていく!?」
「『禁断の詩篇』の負のエネルギーが…りんご飴の甘い香りに中和されて…眠気が…!」
UPSの詩人たちは次々と戦意を喪失し、その場にへなへなと座り込んでしまう。麿もまた、能面の奥で目を白黒させていた。
「ば、馬鹿な…! これほどの純粋で、強靭な『物語』の力…! しかも、その源泉が…寝言だと…!?」
田中の寝言は続く。
「……みさきさんの…パンケーキも…食べたいなぁ……。今度は…タバスコじゃなくて……あの…七味唐辛子と…マシュマロと…あと、何故か…ちくわの輪切りが…いっぱい…入ってるやつ…………。それを食べたら……空が飛べるような…気がするんだ…………ふわふわと…まるで……洗濯物が…風に舞うように……。電柱さんに…挨拶しながら……」
みさきの珍妙パンケーキと空飛ぶ洗濯物と挨拶する電柱。
その言葉と共に、みさきの「マシュマロハート」ブローチが再び眩い虹色の光を放ち、ヘンテコリン博士の防御フィールドも(なぜか「ちくわパワー!」と叫びながら)再起動! それらのポジティブなコトノハ・エネルギーが、田中の寝言が生み出す「優しい物語」の奔流と共鳴し、虚構図書館全体を、そして中央の「ナラティブ・コア」を浄化していく!
「おおっ! ナラティブ・コアの汚染が浄化されていく! 禁断の詩篇の呪いも解けていくぞ!」ヘンテコリンは歓喜の声を上げる。
黒く濁っていた『ナラティブ・コア』はみるみるうちに本来のクリスタルの輝きを取り戻し、そこから溢れ出すのはもはや悪意の物語ではなく、世界中の人々のささやかな願いや夢、優しさやユーモアが詰まった、温かくキラキラとしたコトノハの奔流だった。
五七五麿は、その光景を呆然と見つめていた。
「……負けた…のか……。我々の…『詩による世界の再構築』の理想は……こんな…ゆるふわな寝言の前に……。だが……なぜだろう……この光景は……どこか……心地よい……。これこそが…麿が本当に求めていた…『詩』の姿なのかもしれぬ……」
彼はそっと能面を外し、初めてその素顔を見せた。意外にも、優しく穏やかな目をした好々爺だった。
やがて、田中一郎はすーすーと安らかな寝息を立て始め、完全に眠ってしまった。彼の寝言がもたらした「ザ・グレート・ナラティブ・リセット」によって、UPSの野望は完全に打ち砕かれ、虚構図書館は本来の「物語の力を健やかに育む場所」へとその姿を変えようとしていた。
気絶から覚醒した佐藤君は、この一部始終(の後半)を目の当たりにし、『寝言こそ最強のポエトリー! 夢と現(うつつ)の狭間の言葉こそ、宇宙の真理を語る!』と新たな悟りを開き、その場で号泣しながら新作ポエム『眠れる獅子(中年)とハンバーグ・エレジー』を書き殴っていた。怜花は冷静に、だがわずかに頬を緩ませながら、この奇想天外な結末を記録していた。