国会議事堂の議場。元総理大臣、鏡京太郎が操る「絶対的還元(アブソリュート・リダクション)」のコトノハが荒れ狂い、あらゆる「意味」を消し去ろうとしていた。現総理大臣の魂の叫び――「秘書が作ったカニカマ入り卵焼きは絶対的に意味がある!」――によって生じた一瞬の隙。田中一郎はその好機を逃さなかった。
彼は、鏡の歪んだ「無意味の絶対化」に対し、彼自身の、より素朴で、どこまでも日常的な、それでいて抗いがたい「意味の肯定」をぶつける。
「鏡さん…………あなたの言う『意味のない世界』も…………もしかしたら、どこかには、あるのかもしれませんね…………」
田中は静かに語り始めた。その声は、いつものように少しだけ自信なさげだが、どこか温かい。
「でも…………私は…………朝、みさきさんが淹れてくれる、ちょっと濃すぎるコーヒーの『意味』を、知っています…………」
「…………会社で、佐藤君が時々くれる、意味不明だけどなんだか元気が出る『ダサいお菓子』の、『意味』も、分かっているつもりです…………」
「…………疲れて帰った夜に、冷蔵庫に残っていた、昨日の残り物のカレーが、とてつもなく美味しく感じる…………あの『意味』も…………」
彼の言葉と共に、議場にささやかな、それでいて確かな「日常のコトノハ」が生まれ始めた。湯気を立てるコーヒーカップ、怪しげな色の包み紙のお菓子、温め直されたカレーライス…。それらは鏡の「無意味化フィールド」に触れても消えることなく、むしろそのフィールドを優しく中和していくように輝きを増した。
「そ、そんな…バカな…! 日常の…些事(さじ)のコトノハが…私の『絶対的還元』を…!?」鏡は信じられないという表情で田中を睨む。
田中は続けた。
「意味なんて……最初からそこにあるものではなくて…………もしかしたら……誰かと誰かが関わりあって……泣いたり、笑ったり、怒ったり……パンケーキに、うっかり福神漬けを入れちゃったり…………そういう、日々の、取るに足りないことの積み重ねの中に…………そっと、生まれてくるものなのかもしれませんね…………」
「そして…………その生まれたばかりの、小さな小さな『意味』を…………『これはカニカマだ!』と誰かが言ってあげる…それ自体が、もう一つの大きな『意味』になる…………そんな気が、するんです…………」
田中の言葉は、もはや「ダサい」とか「面白い」とかいう次元を超えていた。それは、彼がこれまでの人生で、そしてみさきと出会ってから積み重ねてきた「生活」そのものから生まれた、魂の叫びであり、同時に究極の「肯定」であった。
「カニカマの……意味……」鏡は呆然と呟く。彼の頭上にあった禍々しい「無」のコトノハが、みるみるうちに、どこにでもある普通の「カニカマ(の幻影、リアルサイズ)」に変わっていく。そのカニカマは、ポロリと床に落ち、コロコロと転がって消えた。
「デリート・ペン」から放たれていた黒い方程式のコトノハも、次々と「買い物メモ(牛乳、卵、あと醤油)」や「電車の乗り換え案内」、「近所のスーパーの特売チラシ」といった、極めて日常的な文字情報へと姿を変え、やがてそれらも空気中に溶けるように消えていった。
議場を支配していた「絶対的還元」の力は完全に消え去り、後に残ったのは、意識を取り戻し、何が起こったのか分からずポカンとしている議員たちと、力なくその場に膝をつく鏡京太郎の姿だった。
「…負けた……のか……。私が、生涯をかけて追い求めた『完全なる無意味』は……ただの……中年男の……カニカマへの……愛情に……?」
鏡の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは絶望ではなく、むしろ長年の呪縛から解き放たれたかのような、安堵の涙に見えた。
現総理大臣が、そっと鏡の肩に手を置いた。
「鏡君、君の言うことも、難しいことは分からんが…とりあえず、私の秘書のカニカマ卵焼き、一度食べてみんか? きっと、何か『新しい意味』が見つかるかもしれんぞ」
こうして、元総理大臣による「概念汚染パンデミック」と「意味の再定義」計画は、田中一郎の「日常という名の絶対肯定(feat.カニカマ)」によって、実にゆるふわな形で阻止されたのだった。
全てが終わり、国会議事堂の前に佇む田中とみさき。
「…なんだか、またすごいことになっちゃいましたね」田中は苦笑する。
「ええ。でも、田中さんの言葉、とっても素敵でしたよ」みさきは心からの笑顔で言った。「私も、田中さんが淹れてくれる濃すぎるコーヒー、大好きです」
二人は自然に手をつなぎ、夕焼けに染まる道を歩き始めた。
ヘンテコリン博士は「ふむ! 日常の肯定こそが最強のコトノハ・バリア! これはダサ力学における新たなパラダイムシフトじゃ!」と大興奮で研究ノートに書き殴り、怜花は「結局、最後は食べ物の話になるのね、この世界は…」と呆れつつもどこか満足げ。佐藤君は「カニカマ・レクイエム! 日常賛歌! 僕の次なるポエムのテーマはこれだ!」と新たな創作意欲に燃えていた。
この後、鏡京太郎は「カニカマ哲学」に目覚め、政界とは別の形で「食を通じた意味の探求」の道を歩み始め、時折、総理秘書と共同で「世界のカニカマ料理コンテスト」を開催するようになるのだが、それはまた別のお話。