「…う」
黒沼が口元を押さえ俯いた。その様子に稲城はハンドルをきり車を急停車させ、すぐさまビニール袋を引き出し黒沼の口に当てた。魔力の使いすぎによる症状だ。
「ゥ゙ぇ」
苦しそうな声とともに独特な臭いが車内に広がる。稲城は窓を開け、黒沼が楽な姿勢になれるようシートベルトを外し背をさすった。
「…。」
黒沼自身が普通に戦えてしまうため、勘違いされやすいが、本来黒沼は探索能力に長けた補助型の魔法使いだ。犯人を探すことくらいにしか魔法を使わず、捕縛時に魔力の使ったとしても最低限であり、前線に出ていても体調を崩した姿など今まで一度も見たことがなかった。
そんな黒沼が、今、明らかに苦しんでいる。
「…もう、やめましょう。迎え呼びます。」
稲城は迎えを呼ぼうと携帯を取り出す。だが、その腕を黒沼が掴んだ。
「まだだ…、まだ…行ける。」
「黒沼さん、貴方が言ったんですよ。無理したやつしばくって。」
「…彼奴等には俺がいた。なのに無理をしたからしばくって言ったんだ。だが、俺の次は居ないだろ!」
「それで無理して、犯人の前で役立たずになりたいんですか!」
「お前がそれを言うのか!適性魔法すら使えこなせないお前が!」
口を拭いながら、黒沼は稲城を睨み付けた。黒沼は、誰に対しても態度を変えない。上司だろうが年下だろうが、遠慮という言葉とは無縁だった。
だが、どんな言葉も、必ず相手を思ってのものだった。
だからこそ、相手を傷つけるだけの言葉を吐く姿は、異様だった。
「ッ」
「とっとと車出せ。これ以上被害者を増やすわけには…」
普段の黒沼だったら絶対にこんな発言はしなかった。この黒沼は、いつもの黒沼じゃない。そうは分かっていても、つい胸元を握りしめていた。息が苦しい。
「そうは行きませんよ。黒沼さん」
その時、シートベルトを締め直そうとした黒沼の腕を、空いていた窓から伸びてきた手が掴んだ。
「五木…」
立っていたのは反対の手にヘルメットを持った五木だった。その後にはバイクがあり、単独で追いかけてきたのだろう。
「篠宮さんから、止めてこいって言われたんですけど。黒沼さんでもこんなバカやるんすね。稲城も熱くなりすぎ。お互い言っていいこととがあると思いますよ。2人ともいつも止める側だったのに。人のこと言えないすね」
言われて初めて、自分も冷静さを失っていたことに気づき稲城の顔に熱があつまる。
「だが、もう追える人間がいないのは事実だろ。人命がかかってるこの場面で俺の選択は間違っちゃいないはずだ。」
黒沼は顔をそらしボソリとつぶやく。年下の部下に諭されたのが、よほど効いたのだろう。黒沼からは先ほどまでの異様な空気は消えていた。
「そうですよ、だから僕らは黒沼に頼りました。黒沼さんもそれに応えてくれた。そして、それが最後の一押しになりました。」
「一押し…?」
その言葉に黒沼が顔を上げる。車の外にはいつの間にか他の車や捜査官が集まってきていた。
「先ほど、相手の隠蔽が解除されたんです。向こうも魔力切れを起こしたようで。今なら残りのメンバーで追えます。いやー、力を合わせるって大切ですねー。」
「まじかよ…気づいてなかった…」
黒沼は顔に手を当て、力を抜くように座席へと身体を預け小さく笑う。その笑みに、どこか自嘲を含んでいた。
「黒沼さんはこのまま、俺が連れて帰るよ。稲城はもう一つの班と合流してくれ。あっちの班もこっちに向かってきてるみたいなんだけど、無理した人が多くて代わりに入ってほしいって篠宮さんが。」
バイクと車の鍵を交換し、五木が車に乗り込む。黒沼はすっかり気が抜けたのか、助手席で静かに眠ってしまっていた。一度合流した捜査官たちはすでに、被害者の追跡のために出発している。
「分かった。気を付けてな」
「お前こそ、気をつけろよ。この事件、犯人一人じゃない」
「だろうな。」
そうでなければ、辻褄が合わない。
被害者をビルの高層階まで持ち上げたこと、市販の傘で人ごとビルに突き刺したこと、成人男性を人目に触れずに連れ去ったこと。そして、黒沼と拮抗するほどの隠蔽ができたこと。それらすべてを一人でやったとしたら犯人は相当な魔力量と、複数の適性を兼ね備えていることになる。もちろん、黒沼のように応用が利くタイプの適性も存在する。だが、それでもこれだけのことを一人で可能にするには、あまりにも現実離れしている。
「今、伊藤さん達が残った1人を保護して話を聞きいてる。盗んだ相手を殺してるってことは、最初から被害者たちを狙ってたんだろうって。それに凶器が傘だったのも意味あるんじゃないかってさ。ただ、保護されたやつが何か隠してるらしくて、話にならないんだよ。だから、犯人に関して知ってることがあるんじゃないかって怪しんでる」
「最後の1人って」
「知らなかったのか。」
「あぁ、伊藤さんから見せられたのは、2人の遺体と行方不明の2人のだけだった。書類も引き継いだから正直、被害者たちの名前も年齢も、まだちゃんと把握できてないんだ」
最近はずっと、黒沼と共に現場を飛び回っていた。それもこれも現場に出れる状態の人間がいなかったせいなのだが、その分書類仕事は任せてしまっていた
「まぁ、ここ最近デスクワークが忙しすぎて、外を黒沼さんやお前に頼りっぱなしだったからな。…保護されたのは、中年くらい女性だったよ。確か元教師って言ってたかな。」
亡くなったのは高校生くらいの少年と若い男性。いなくなったのは初老の男性、多分中学生くらいの少女。そして保護された元教師の女性…
「学校で何かあっての復讐」
稲城は思いついたまま口にするが、すぐに五木に否定された。
「それは僕たちも考えたけどさ。同じ地域に学校は複数あったし、お爺さんの小学生の孫と子どもたちは同じ学校にいた事があるけど、それぞれ学年は違うし、中学は別々。大学生は地方出身で大学までここに住んでなかったし、お爺さんは定年した元サラリーマン。元教師は高校の先生で、男子高校生が1年だけ被ってるけど、その後先生が辞めてるから関わり薄くて。」
やっぱりそう単純じゃないよなと、稲城も頷く。
「まぁ、伊藤さんが話聞いてるし。そのうち分かると思うから。今は2人の保護に集中してくれ」
「そうだな」
集中しすぎて、見過ごして、今度は集中しなければならないことをおろそかにして。だめだなと頭をかく。
「じゃ、今度こそ行くよ。また後でな」
「あぁ、後で」
少しずつ遠ざかっていく車を見送る。
「…」
五木と話し込んでしまったから、もしかしたら何か連絡が来ているかも。と稲城は携帯を開く。
案の定、合流予定の班から何処にいるとメールが入っており、申し訳ないことをしたなと謝罪のメールを打とうとして稲城の指が止まる。
「どこにいる?」
合流予定地はここだ。稲城の乗っていた車にはGPSがついていた。先ほど、五木が来られたのだから、位置情報は正常に動作していたはずだ。なのになぜ、どこにいるなんて訊かれるのか。
「まさか…!」
悪い予感がし、稲城が振り返ると視界の端で遠ざかる車から火の手が上がった。
「五木!黒沼さん!」
稲城はバイクに飛び乗り、エンジンをかけようとしたその瞬間。
「ッァ…」
ガツンと鈍い音とともに頭に激しい衝撃が走り、稲城の意識は闇に落ちた。