私は診察室でカルテを書き込みながら神埼さんのご家族が来るのを待っていた。
今、この男性専用病棟に入院しているのは神崎さんただ1人。
決して大きい病棟ではないけれど、数少ない男性に余計なストレスや閉塞感を与えないためにも部屋は全て個室になっており、屋上には極ひと握りの男性高官専用の個室まである。
患者が少なくても、この病院は国からの支援金で運営しているので、治療費も無料同然の金額でも余裕で採算が取れる。
「そろそろかしら」
カルテを書き終えたと同時くらいに、診察室の扉がノックされた。
「神崎様がお見えです」
「お連れして」
はいと外にいる看護師が返事をして離れていった。
男性を産んだ母親というのは一定の支援やメリットがある。こういう病院を使えるのも特別待遇のひとつね。
また診察室がノックされる。
「お連れしました」
「はい、お通しして下さい」
私がそういうと、看護師が扉をあけて神埼一家を診察室に入れた。
お母様と娘さんを椅子に座らせて、私はその2人に向かい合う形となった。
「神埼様にご報告しなければならないことがあります」
私が端的にそう言うと、母親の詩織さんが口を開いた。
「守は! 守は目覚めたんですよね!?」
「それも含めてご報告します、神埼 守さんは先程目を覚まされました」
それを聞いて母娘は瞳に涙を溜めながら抱き合って喜んでいる。
さて、本題はここからだ。
「細菌感染も問題なく、傷口も完治しておりますが傷跡は残るかと思われます、ですがそれ以上の問題がひとつ」
「なんでしょうか?」
「神埼 守さんの記憶の大部分が欠落していることか発覚しました」
「……えっ」
「端的に申しますと、記憶障害ということになります」
「そんなっ!!」
母親が嘘だと言いたいかのように前のめりになり、こちらを見てくる。
「事実です。ですので、こうして神埼 守さんとの直の面談ではなく、私供が緩衝材として事前にお伝えしております」
「せっかく目が覚めたのに……そんなこと……」
「それと申し上げにくいのですが、大規模な記憶の改竄が見つかっております」
「記憶の改竄……? どういう事でしょう?」
「神埼 守さんは、ご自身のことを安藤 隆一と名乗りした。それとご自身には父親がいると、はっきり申し上げておりました」
それを聞いて、神埼母娘はやはりと言うべきか、ショックを受けたようね。
話に聞く限りではまるで別人のようだとは流石に言わなかったけど、それでも母娘のダメージは計り知れなかった。
それもそうね、数少ない男性が、それも身内が自分たちの事を忘れたと言うんですもの、私でも卒倒物だわ。
「お兄ちゃんは、私の事は覚えてるんですか……?」
「妹がいるとは言っていましたね」
「良かった……」
少し安堵したように見える妹さん、でもそれが本当に同一人物の妹なのかは確認してみないと断言できないんじゃないかしら?
もしかしたら、架空の妹を自身の妹と言っている可能性はゼロではないわね。
「現状ではそのような状態でして、一般常識すら抜け落ちている状況です。ですので、1週間程度の経過入院とさせて頂きたいのですが、宜しいでしょうか?」
「そんな……でしたら少しだけでもいいんです、息子に会わせて下さい!」
「ご希望されるのでしたらもちろん構いません、ですがそれで神埼 守さんにどのような影響があるのか分かりません。脅す訳ではありませんが、もし双方に悪影響が出たとしても、当院では責任を負いかねます。それでも宜しければ、今すぐにでも面会は出来ます」
そう言うと、神埼母娘は真剣に考え出したようね。
考えること数秒、娘の方が先に口を開いた。
「分かりました、1週間待ちます」
「ヒナタちゃん!?」
「ママも、いまは待とうよ……お兄ちゃんだって多分苦しいはずだよ……」
「……そうね」
私はなぜ神埼 守という男性が腹部を刺傷したのかを知っている。
だからこそ、この言い方は有効だと確信を持てていたわ。
「それで、円滑に常識や知識の再構築を促すために、神埼さんのご家族にご協力を願いたいのです」
「私たちで守のために出来ることなら何でもします」
「では。私にあの封筒をお貸し願いたいのです。もちろん外部に公開するつもりはありませんし、情報漏洩に関しては細心の注意を払わせて頂きます」
男性の個人情報を漏らしでもしたら、私は社会的にも、生命的にも抹殺されかねない。
そんな爆弾みたいな代物を、あえて受け取らなければならないのは、おそらくそれが鍵となるはずだから。
「……分かりました。万が一と思って持参しておりますので、お預けします……それが、守の為になるんですよね?」
「その必要があると判断した際には使用するかも知れませんが、今はまだ治療に使えるかもしれない程度の認識です。それとお二人の写真を撮影させて頂きたいのですが、構いませんか?」
「それは構いませんが、どうしてでしょう?」
「まずは神埼 守さんにお二人の写真を見せて記憶が戻るか試そうと思います」
これは9割は嘘だ。
私はある種の確信を持っている、きっとその程度では彼の記憶は戻らない。
でも、この2人を家族と刷り込むことは出来るはず。
「そういう事でしたら、いくらでも。他に何か出来ることはありませんか?」
「現状ではありません。ですが経過観察中に何かしらの症状が出てくる可能性はありますので、その際にはこちらからの追加のお願いがあり得るのはご理解ください」
「……わかりました」
さて、これで最大の難関は片付いたわ。
んふふふふ……、あぁ……駄目よね、年甲斐もなくソワソワしてしまうわ。
でも仕方ないじゃない?
体が勝手にガッツポーズしたくなるのを必死に抑えて、私は真顔を取り繕いつつ神埼母娘をお見送りした。