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第31話 神埼 ヒナタ

ママ、ごめんなさい。ヒナタは悪い子です……。

今朝はそんなつもりなんてなかったのに、お兄ちゃんと言い合いをしちゃった……。

お兄ちゃんに嫌われたらどうしよう。

でも仕方がないじゃない、お兄ちゃんはどうしてか一人で行動をしたがるし、そんなことになったら色んな女の人に声を掛けられるに決まってる……もしヒナタの想像通りになっちゃったら大変になるのはお兄ちゃんなのに。


ヒナタはなにも間違ったことは言ってないのに……。


そんなことばかり考えていたら体調がすごく悪くなっちゃって、今日は部活を休ませて貰った……。

吐き気と戦いながら家に帰らないといけないのは辛いけど、それでもあの時のことを思い出せば、この程度のことは苦しくもない。


いつも考えるのはお兄ちゃんのことばかり。


入院する前はお兄ちゃんは、あんな感じじゃなかった。

確かに小さな頃はよくヒナタとも遊んでくれたし、ママもよくお兄ちゃんはワンパクだって苦笑いしながら言ってたのは覚えてる。

そんなお兄ちゃんと一緒にボール蹴りもしてたし、絵本とかも読んでくれたりした。

それで、ヒナタがリフティングができる様になった時とか、簡単か計算ができる様になった時は、偉いって、すごいって、お兄ちゃんは頭を撫でてくれた。


でも、小学校の高学年になったくらいから様子が変わっていった。

段々と大人の女の人を避けるようになっていって、そのうちヒナタとも話さなくなっちゃった。

高校に入る前のお兄ちゃんは、もう人との繋がりすら嫌がってるようにも見えて、ヒナタとは目も合わせてくれないようになっちゃって。

でもヒナタは女の子で、お兄ちゃんは男の子だし、それも仕方ないのかなって、無理矢理納得しようとして……すごく辛かった。

前のように一緒に遊んだり、お話したくて、ヒナタから色々話しかけたけど、お兄ちゃんは言葉を忘れちゃったみたいに返事以外の言葉を使わない。


もう無理なのかなって思った時に、お兄ちゃんはキッチンで自分のお腹を包丁で刺して倒れていた。


その時に初めて、血の気が引くって意味を知った。


すごく寒く感じて。


うまく呼吸ができなくて。


目の前の状況が飲み込めなかった。


でも、どうすればいいのかは頭の中にあった。


スマホで救急車を呼んで、ヒナタもお兄ちゃんと一緒に病院へ向かった。

ママにもちゃんと報告したら、仕事中なのに中断して病院へ来るって話になった。

その時にお医者さんと看護師さん達と、何か話していたはずなのに、何をその時に話していたのか全然覚えてない。

ただ、お兄ちゃんは女性の忌避感があるって伝えた事だけは、なんとなく覚えてる。


「大丈夫、あの様子ならお兄さんは助かるわ。包丁を抜かなかったから出血はまだ抑えられてる。ちゃんと対処法を知っていたのね、偉いわ」


お医者さんからそう言われて、ヒナタは力が抜けてしまって……廊下に座り込んた。

それから椅子に移されて、どれだけ座っていたのかは分からない。

いつの間にかママがヒナタの横に居て、ヒナタを抱きしめてくれていた。


何がいけなかったんだろう。


どうしてこうなったんだろう。


お兄ちゃんは、何も話してくれなかった。


辛いとか、苦しいとか、何も言わなかった。


でも、突然…………。


手術は終わって、それから一ヶ月がたっても、お兄ちゃんは目を覚まさなかった……。

お医者さんの話だと、もう傷は塞がっているって聞いたのに。


目を覚ましたくないのかな?


そうだよね、こんなになるほど嫌だったんだもんね……。


ヒナタにはどうしようもなくて、ただこうして現状を聞くことしかできない。

ヒナタはお兄ちゃんに、何もしてあげれてないのに。

ヒナタには、お兄ちゃんを助けられない。


更に一ヶ月が過ぎた頃、病院から連絡があった。

お兄ちゃんが目を覚ましたって聞いて、ヒナタとママは急いで病院へと向かった。


そこで、お兄ちゃんが記憶を無くしていると聞いた……。


それでもヒナタの事は憶えてくれて嬉しかったのに、でもお兄ちゃんはヒナタとの思い出は全部失っていた……。


ヒナタはまだ憶えてるよ。


一緒にサッカーしてたことも。


一緒に本を読んだことも。


ヒナタの頭を撫でてくれたことも。


全部、全部憶えてる。


帰ってきたお兄ちゃんは、前みたいな暗い感じじゃなかった。

むしろ、ワンパクの頃だったお兄ちゃんに近い感じがする。

だから不安になっちゃったんだ。


「お兄ちゃん、病院は大丈夫だった? 変なことされなかった?」


「全然。むしろみんな良い人で、凄く良くしてもらったよ」


お兄ちゃんは笑ってた。

それは私の記憶の中にある、小さな頃の思い出の笑顔と一緒だった。


「なんかお兄ちゃん、前と全然違うね」


前の、女の人を避けていた時とは、全然違う。

何より違うのは、ヒナタがこう聞いても、お兄ちゃんは返事をするだけで会話はしてくれなかった。


「もしかして、今の俺ってそんなに変かな?」


「んーん、そんな事ない。今のお兄ちゃんのほうがずっと良いよ!」


色んなことがありすぎて涙が出るほど悲しかったけど、だけどこれだけはヒナタにとっては嬉しいこと。


そしてまた、昔みたいにお兄ちゃんはヒナタの頭を撫でてくれた。


最初は驚いちゃった、だってずっと避けられてたのに。もうこういう事をするのが嫌になったんだと思ってたから……。


「今の俺は嫌じゃないけどな」


「そうなのっ!?」


「もちろん。だけどヒナタが嫌なら、それはそれでいいんだぞ? 俺もちゃんと控えるから」


「そんな事ないよ! むしろして欲しいっ!」


ヒナタと一緒に遊んでた頃のお兄ちゃんが帰ってきたんだ。


そう実感したら、ヒナタの中に何かが産まれた。


苛立いらだちにも似ていて、悲しさにも似ていて、怒りにも似ていて。

でも、どれも違う。

この気持ちを、何て言えばいいのか分からない……。

その気持ちを向ける相手は、どこにもいない。


でも、どこかにいるんだ。


お兄ちゃんを、あんな風にした元凶が。


奇跡的に、お兄ちゃんはその事を忘れてくれたんだ。


だから、昔のお兄ちゃんに戻ったんだ。


遠ざけないといけない。


再現してはいけない。


もう、今のお兄ちゃんを失う訳にはいかない。


お兄ちゃんを守らないと。


ヒナタが。


「あれ? ヒナタ?」


お兄ちゃんの声が聞こえた。

ヒナタの学校とお兄ちゃんの学校の方向は逆だけど、途中までは一緒だからたまたま一緒になったのかも。


「お兄……ちゃん……?」


「おー! この子が神っちの妹ちゃん? かわいーね! 凜花も見てみなよ!」


「ちょっと、樹里。あんまり馴れ馴れしいのは良くないわよ」


「俺一人で帰れるって言ったんだけど、せめて二人くらいは一緒に連れて帰るようにって言われちゃってさ」


なにを言ってるの?


「どうしたんだ? ヒナタ。顔色が悪いな」


誰がお兄ちゃんをあんな風にしたのか、分からないんだよ?

もしかしたらこの二人が子供のときに何かして、お兄ちゃんをおかしくしたかもしれないんだよ?


もうダメ、吐きそう……。


「おい! ヒナタ!? 悪い! 俺はヒナタを連れて急いで帰るから!」


「あーし等も手伝おうか?」


「いや、もう家は近いから、ここまででいいよ」


「分かったわ、妹さんもお大事にね」


「ヤバかったらいつでも呼んでよ、まだ近くにいっからさ」


「ありがとう!」


浮遊感。


あぁ、ヒナタは抱えられたんだ。


「ごめんね……お兄ちゃん……」


「ったく、なんでこんなになるまで無理をしたんだ」


無理もしたいよ。

でも、ヒナタは弱くて……。


「俺の心配をする前に自分の心配をしろって朝に言ったばかりだってのに」


ごめんね、お兄ちゃん。

昔からヒナタはお兄ちゃんから貰ってばかり。

なのにヒナタからお兄ちゃんに返せるものなんて何もない。


「ほんとに……ごめんね……」


「もう謝らなくていいから、それでどうしたんだ? 熱でもあるのか?」


「んーん……気持ち悪くて……吐きそうだけ……」


今は……落ち着いてきて、不思議と吐き気はだんだんと消えてくれた。

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