街の裏路地を駆け抜ける二つの足音。一つはどてどてと重ったるく聞くだけで地震の余震かとでも錯覚してしまう音。一つは、通常の人間が持ってるより少し足を前に出すのが早い所為か早めのリズムの足音。
ばしゃばしゃと地下水路まで辿り着いたら、「百の痛み虫」は獲物を狙うだけ。
眼は眼鏡と髪に隠れ、髪は風に抵抗することなく靡いて弄ばれる。
相手は怯えて、相手の姿をよくよくと観察する。観察すればするほどこれからどうなるか、という恐怖心だけが心を満たしていくのに。
薄暗くて見えにくいがきっと太陽の日を浴びたなら、明るく輝くであろう茶色の髪の毛。 眼は暗くて夜のような闇色をしているが、何処か光っていて、眼鏡の奥には熱情を感じる。
服は動きやすさを選んだのか、オレンジ色の胴衣でこの時世、年々と寒くなってきているからとマントが流行っているのに、そういった部類を身につけては居ない。
だが寒いと思ってないわけではなく、微かに寒さでそいつは震えていた。金が無くて未だに服が買えないのだろうか? それとも買う時期を逃したのだろうか?
意外と背丈は標準男子で、噂で恐れられている「百の痛み虫」とは思えない。
男はごくりと生唾を、じわじわと迫る恐怖と一緒に飲み込んだ。この怯む心ごと飲み込んで、尻から出て行って全ての恐怖心が出て行ってしまえばいいと思って。
男は忘れている。飲み込むという行為は、体内に取り込むと言うことを。
恐怖は体内に取り込まれ、益々怯えて金棒を持つ手が震える。自分の体内の免疫もとい、痛み虫は相手の攻撃を知っているだろうか、寧ろ知っていることを男は棒人間の神に祈った。
この世界には不思議な現象があって、何かしら痛む感覚があったりすると、それは「痛み虫」と言われて、体内にその痛みを覚えたときに宿る。怪我をした際には、覚えのある痛みならば、体内に侵入した「痛み虫」が同胞を食べるので治りが早い。
通常、常人の「痛み虫」は最高でも三十だと言われ、武術の達人でも五十ぐらいだろうと言われている。
だが、目の前のこの男は「百の痛み虫」を体内に宿しているということで恐れられ、ハンターや裏家業達は、彼を相手にしたがらない。
百も痛みを覚えているならば、致命傷をあげても、もしかしたら覚えてる痛みかもしれないので、「痛み虫」が治してしまうかも知れないからだ。
「痛み虫」は決まった期間で治してくれる訳ではないので、中々、奇襲を狙うタイミングが判りづらい。それに瞬時で治すときもある。
「痛み虫」が多ければ多いほど、医者いらずと言われている。不死身や、神になることもできるだろうとも。
――嗚呼、こいつがあの「百の痛み虫」の男か。
男は、死を直前に感じたが、それでも最後の抵抗と言わんばかりに、己の武器を、先ほど負けたにもかかわらず、負けて逃げていたにもかかわらず、取り出し、金棒を振り回す。
「死ぬわけにはいかんのじゃっ!」
「百の痛み虫」は避けたが、そこで思いがけず殺気が一気に消えた。
「……――劉桜(るおう)?」
「……?」
相手はハンターだから、当然自分の、賞金首である自分の名を知っていて当たり前なのだが、何処かその己を呼ぶ名の中には親しみが込められて、劉桜と呼ばれた、まるで赤鬼のように横幅も立て幅もモンスターのように図体のでかい男は首を傾げた。
「劉桜……え、もしかして……」
この反応はもしかして、知り合いなのだろうか。
囚人時代もあった己のこと、かつての同胞がハンターとして活躍しててもおかしくはないのだが、どうあっても己の知る昔の顔ぶれの中には、こんな有名になりそうなハンターは居ない。
「誰じゃ、おんし」
劉桜は訝しげに尋ねた。その質問は、自分がその名であってることを肯定している。
すると突如その声と影は、喜びに満ちて、武器を捨てて劉桜! と親しげに叫んで、己の懐に入ってこようとする。
男を懐に入れる趣味もないし、ハンターを懐に入れたら首をカッ切られる、劉桜は警戒心そのままに武器を振り回そうとしたが、一瞬だけ光にぼんやりと照らされて見えた顔は一番ハンターとしてあり得ない、昔の囚人仲間で、一番の親友だった男だ。
男は、昔、名がないと嘆いていた親友に己が名付けた名前を数年ぶりに口に出し、その親友を眼が抜け落ちるのではと思うほどに開眼して見つめる。
「陽炎(かげろう)!?」
思わず劉桜は武器を振り回すのも忘れて、棒立ちしていたが、陽炎と呼ばれた男は再会を喜び、今日、敵と味方だったことも忘れて抱きついて、劉桜だー! と喜び、涙した。
戸惑って相手をもう一度確認しようとしたところ、声が聞こえた。
此処には己と、陽炎しか居ない筈だったのだが。誰か居ても、ハンターと賞金首のやりとりは黙認されてる街なので、見なかったこととされ、早々に何処かへ立ち去られる。
だから、普通ならば誰も声なんてかけたりしないのに……――。
「ちょっと、我が愛しの君、どうされたのです? この男は、今日の貴方の獲物で、貴方が持ってない痛み虫を持ちそうな相手なんですよ?」
「敵よ! 敵なのに、何で陽炎ちゃんってば、抱きつくの?! まさか一目惚れ?! ええっ陽炎ちゃん、そういうのが趣味? うっそーどうしてアタシ、巨体にうまれてこなかったの!?」
「………世の中の美形だけではなく、同じ不細工までもが敵だなんて……世の中の男どもは全員死んでしまえばいいんだ……」
いっぺんに聞こえてきた、幻聴のような、明るかったり甘ったるかったりネガティブだったりする声。
それらが不思議で、そして恐怖で辺りを見回すと、完全に戦意をなくした陽炎が、劉桜が声に怯えているのだと気づき、苦笑を浮かべた。
その苦笑の暖かさは、何年経っても暖かいままだ、と劉桜は少し安心しながらも、声に驚いて誰だーと水路で叫ぶ。
返事は、帰っては来ないで、くすくすとした先ほどの全員の声が笑っている、自分を。木霊してそれらは反響し合い、不気味に思った劉桜は眼を細めて、きょろきょろとしてしまう。
そんな声を嗜めるように、こら、と陽炎は声を出す。
「もう敵じゃねーよ、この人は。それと何度も言わせんな、俺は男色趣味はない」
「じゃあ何で抱きつくのよ、陽炎ちゃーん」
きゅーんとまるで子犬が鳴きそうな響きで、幼女の声が聞こえた。
陽炎に反応し、そしてこの声は陽炎にまとわりついているようで、よく見ると、暗い地下水路の中で陽炎の周りだけが、きらきらと光っていて、それらはまるで陽炎を中心とした蛍のようだった。
「……陽炎、お前、妖術使いになったんか?」
「まぁ、似たようなものかね。……な、劉桜、とりあえずここから出ねぇか? 俺はもう、殺す気ねぇしさ。誰がお前を殺せるものか」
その言葉に周りの蛍は非難囂々の連発。それに五月蠅そうにしながらも陽炎は、ほら行こうぜ、と劉桜に手を差し出した。
劉桜は思わぬ再会と、思わぬ「百の痛み虫」の正体を知り、馬鹿笑いしながらも、手を受け取らずたたき落とし、機嫌良さそうに表へ出るのだった。