あれから6年……僕は成人となり大学に通っている。
中学生の頃、あの大雨の中で怜さんに出逢っていなかったら今の僕はなかっただろう。
僕が小さい頃に父さんが亡くなり、母さんは夜のお店で出会った有名企業の社長と再婚し、何不自由ない暮らしをしてきた。母さんは自由気ままに過ごすようになり、僕のことは忘れているように見えた。
母は再婚相手の間にできた子ども、僕の妹を可愛がるので、家に僕の居場所なんてない。
そして何故か僕は母の再婚相手の会社の次期社長候補と言われ(当時僕は小学校6年生なのに)部屋に閉じ込められ、専属の家庭教師の元で勉強させられるようになった。
母さんからは相手にされず、再婚相手は僕のことを会社のために利用することしか考えない。そして母、再婚相手、妹の3人で『家族』といった雰囲気。僕はその中に入ることは許されない……
中学生になってからもそのような生活が続き、ついに僕は家を飛び出した。あの大雨の中。そこで怜さんと出逢った。あの時少しだけでも、怜さんといるとホッとできたのだ。そして決めた。
立派な大人になって、怜さんのお店に行くことを。そして、あの家に戻って母さんや再婚相手の言うことを聞きながら、いや正確には聞き流しながら、怜さんのことだけを考えて6年間、過ごしてきたのだ。
※※※
日向の母親、
「日向も中学生の頃は荒れてたのに、やっぱりこの家が良かったのよ。それで……あなたはこれで良かったの? 本当に日向が次期社長候補だなんて」
留美の再婚相手、
「うちは代々男性が社長だ。年齢的にも日向が丁度いい。僕は君の息子なら信じられるからな……留美」
「あら、
菜穂とは留美と耕造の娘、つまり日向の妹であり、今は小学生になったところである。
「なぁに、菜穂は僕と君の娘さ。うちの会社にいるよりも……もっと幸せな人生を送れるようにするさ」
「そうね、あの会社は日向に任せて私達は……フフフ」
※※※
僕は大学の帰りに6年前の記憶を辿り、あの店のある場所……路地裏に行く。黒地に金色の文字でルパンと書かれた看板、ここだ。とうとう来てしまった……
怜さん、僕のこと……覚えてくれているかな?
ドアを開ける。あの時からほとんど変わらない黒基調のレトロなバー。
「いらっしゃいませ」と店員が言う。
「あの……怜さんは、いらっしゃいますか?」
「怜さん? ああ、奥にいますよ、お知り合いですか?」
「えーと、知り合いというか……」
「どうぞあちらのカウンターへ」
僕は案内されるがまま、席についた。奥から黒いベストに黒のネクタイのバーテンダーが現れる……間違いない、怜さんだ。
「怜さんのお知り合いという方だそうです」と店員が言う。
「ん? お前……どこかで……?」と怜さんが目を細めて僕を見る。
僕は怜さんに見つめられ、ドキドキしながら、自分のことを果たして覚えてくれているかどうか……緊張で手汗がすごいことになっている。
僕のこと……覚えていますか?
「こっちは大丈夫だ、あっちの客を頼む」と怜さんが店員に指示した。
店員が向こうに行った後、怜さんが僕の方を見て言う。
「もしかして……あの大雨の中にいた奴か?」
怜さん……ぼ、僕のことを……!
「はい……あの時はありがとう……ございました」僕は恥ずかしさのあまり声が小さくなる。
「そうか、もうそんな歳か。元気にしてたか?」
「何とか……」
「悪い、名前は……何だっけな……ちょっと待てよ……」
「……」
※※※
あれから6年ぐらいか。
俺の目の前のカウンターに、あの時の大雨の中で出逢った少年が成長した姿で座っている。
相変わらず潤んだ大きな瞳。茶髪でふんわりした髪。男性なのに可愛いらしいといった言葉がぴったりだ。
まさか俺みたいなおじさんを覚えてくれていたとはな。それで……名前は……何だっけ。聞いたような聞いていないような……あぁ……思い出せそうなのにな……
そんなに愛らしい目で見られると緊張してしまうな。うーん思い出せぬ。すまない。
「ひ……日向……です……」
彼の方から言ってくれた。
「そうだ、日向……! もうここに来るということはお酒も飲めるということで……何がいいか?」と俺が尋ねる。
「れ……怜さんに……お任せします……」
緊張しているのか頬がほんのり赤くなっている。もしかしてさっきも飲んで来たとか? まぁいい。純粋そうな日向に合いそうなもので……
※※※
柑橘ベースの爽やかなカクテルが僕の前に出された。怜さんが……僕のために作ってくれたカクテル。緊張するけど……嬉しい。
「日向って太陽の光みたいだからな、そういうイメージさ」と怜さんが言う。
「いただきます……」
あぁ……オレンジのような甘酸っぱい香りがして……僕は……
パタン
「日向? おい! まさか……お酒弱いのか……?」
そして僕の目が覚めた場所はベッドの上だった。
あれ……頭が痛い……?
ここは……どこ?
外が少し明るいような……
「気がついたか」
ハッと気づくとそこには怜さんがいた。あのバーテンダーの姿ではない。白Tシャツでソファに座っている。
「怜さん……あの……僕……どうなってたのでしょうか」
「俺のカクテルを飲んだ途端、眠ってしまったんだよ。ここは店の二階、つまり俺の部屋だ。お前……酒飲めないのか?」
「初めて飲むのは怜さんのお店で……って決めていたんです」
「そうだったのか。お前はそこまで考えて俺の所に来てくれたのか」
「ご……ごめんなさい。僕は前も怜さんに助けられて……ちゃんと大人になったらまたここに来ようと思って……頑張ってきたのに……また怜さんに迷惑かけちゃった」
今にも泣いてしまいそうな僕のところに怜さんが座りに来てくれた。
「迷惑なんかじゃないさ。こんな俺のこと、よく覚えててくれたんだな。俺だって嬉しかったさ。6年の間……お前なりに頑張ったんだな」
そう言って僕の頭をワシャワシャと撫でた。
「そんな顔されると守ってやりたくなる。不思議だな」
「れ……怜さん……うぅ……」
温かい怜さんの手……今までこんなに優しく頭を撫でられたことなんてあっただろうか……母さんは僕の方なんて見向きもしなかったからな……
僕だって……誰かに褒めてもらいたかったんだ。怜さんに「頑張ったんだな」と言われて初めて気がついた。込み上げてくる想い、溢れ出す涙。駄目だ……泣いてしまったらまた怜さんに迷惑をかけてしまう……
「ひな、気にしなくていい。お前は6年前だって泣いてたんだから、今泣かれても俺は驚かないさ。俺の前ではひなは……そのままでいいんだよ」
怜さんにひなって呼ばれた……嬉しいな。またドキドキしてくる。涙と嬉しさと鼓動がごちゃ混ぜになっている。怜さん……僕は……この気持ちをどうしたらいいの?
「怜さん……怜さん……!」
※※※
ひな……俺の口が勝手にそう呼んでいた。ひなが俺にしがみついて泣いている。あの頃から彼は変わらない。ひなは、何かから逃れるように俺のところに来ているようだ。
俺みたいなおじさんのどこが良かったのかはわからないが、俺自身もひなへの気持ちは……特別なものとなりつつあった。