怜の元妻、奈津江が2階のギャラリーに現れた。
「奈津江、どうして……ここに……」
「ウェイターさんから聞いた。怜くんが早めに来ているって……」
ウェイターがつい怜のことを喋ってしまうのもわからなくはない。清楚な服装であるにも関わらず色気があって、彼女に一度見られると目を逸らすことができない。そして彼女を目で追ってしまいそうな……そのぐらい魅力のある女性である。怜の5歳上だと聞いていた日向だが……もっと若く見える。でも年相応の上品さもある。
「先客さんが……いらしていたのね」
奈津江が日向を見つめると、日向の鼓動が早くなる。単なる緊張なのか、それとも奈津江に惹かれているからなのか……わからない。日向は思わず怜の手をぎゅっと握った。
「あら……可愛いわね……フフ」
息子の翔と同じように日向を可愛いと言う奈津江である。
「奈津江……何か用なのか?」と怜。
1階に降りて、テーブル席に奈津江と怜、そして日向も座っている。この状況で自分がいていいのか? と思う日向であったが、怜がテーブルの下で手を握ってくれたので、鼓動が少しずつおさまっていく。
「翔も……この店に来たみたいね」
ゆっくりと話し出す奈津江。そのペースに飲み込まれそうである。
「そうだな、20年振りだったから最初は驚いたさ。奈津江は……変わらないな」
変わらないというか、さらに大人の魅力が出てきたというか……
「久々に……怜くんに会ってみたいなと思って来ただけ。翔もやっぱり……本当の父親に会って嬉しそうだったわね」
「そうかもな」
「怜くんも……変わらないわね。あの時と同じような……目をしている」
あの時と言われて、当時を思い出しそうになる。その頃もこうやって奈津江にじっと見られてしまったのだ。
奈津江は今……何をしたいのだ?
「翔に聞いたと思うけど……私は再婚も……うまくいかなかったわ……もしかしたら……本当の父親であるあなたの方が良いのかも……」
日向は違うと思った。
翔くんは怜さんを父さんとは呼んでいるが、『過ごした時間が圧倒的に長いのは、もう1人の父。血の繋がりはなくともあの人が父親だと思っている』と言っていたんだ。
だけど……それも本当なのかな……
この人に言われたことの方が真実なのではないか、と思ってしまう。
何だか怖い……このまま怜さんが……元奥さんのところに戻ってしまうんじゃないか? でも……その方がいいのかな……
奈津江のゆったりした口調で日向はぼんやりと考えてしまうのだった。
そして日向の目を見て話す奈津江。
「あぁ……この前……あなたと翔が仲良く話しているのを見たわ……拓海くん以来かもね……翔があんなに楽しそうにしているもの……これからも……翔をよろしくね」
日向はそう言われ、思わず、
「はい……」と言う。
自分が翔と一緒にいて、翔に怜という本当の父親がいれば良さそうに感じてしまう……どうして……
「あ、僕……これで……失礼します。邪魔しちゃって……すみません」
日向が怜の手を離し、そのまま店から出て行った。
「おい、ひな……」
「フフ……いい子ね。怜くん」
……あんなに綺麗な人なら怜さんも好きになるのだろうな。そして、怜さんと奈津江さんと翔くんで家族……本当の家族であるあの3人に僕が割り込むなんて、許されないことだったのかも。
前に怜さんが言っていた。『ひなが幸せになるなら誰を選んでも構わない。俺のことは気にしなくていい』この言葉で僕は寂しさを感じたけれど、今なら怜さんがそう言ってくれた気持ちが分かる。
僕だって……怜さんと翔くんが家族になれるのなら……それで奈津江さんともうまく行くのであれば……そうなってほしい。
僕には叶わなかった本当の家族。それを3人が望むのなら。
ひたすら走っていると遠くから声がした。
「おーい! ひなくん!」翔の声だ。拓海もいる。
「ひなくん、そんなに慌ててどうしたんだい?」
「ハァ……ハァ……あの……僕……」
「おい、顔色悪くないか?」と拓海。
「いや……何も……」と日向が言うがけっこう走ってきたので疲れているようだ。
「そんなひなくんを放っておくわけにはいかないな。うちに来なよ」
そういうことで翔の家、3回目。今回は拓海も一緒である。明らかに日向の様子がおかしいと感じた翔。
「ひなくん……君は分かりやすいところが魅力さ。何かあったのかい?」
ただの口説き文句にしか聞こえないな、と思う拓海であった。
「あの……僕……翔くんのお母さんに会ったんだ……」
「え?」翔の顔色が変わった。
「今日は怜さんと一緒にいたくて、出かけた帰りにオープン前のバーに一緒に行ったら……翔くんのお母さんが来て」
「母さんが……?」
日向が泣きそうになりながら話す。
「すごく……綺麗な人だった。怜さんが好きになるのも分かるよ。翔くんも怜さんのような父親の方がいいかもしれないって言われて……」
「待ってひなくん。僕はそんなこと思っていない」
「うん……だけど……翔くんのお母さんがどこか哀しげな表情で……それを見るとそうなのかなって思って……僕には本当の家族みたいなものはなかったから……怜さんや翔くんはひょっとしたら、あのお母さんと一緒にいた方がいいのかなって感じたんだ」
「そうだったのか……ひなくん、君の優しさは僕を虜にするね」
隙があれば口説こうとする翔に拓海は呆れていたが、
「翔のお母さん……何回か見たけど綺麗だよな」と言う。
「まぁね……あの母さんはちょっとね……」
翔が微妙な顔つきとなる。
「母さんは悪気がないんだよ。それが一番困るんだけどね。僕も母さんの言うことが絶対だと思っていた。ただあの人は……何考えているのかわからない時もあったかな」
「そうなんだ、めちゃくちゃ優しそうに見えたけど……何か見とれてしまうよな」と拓海。
「僕は長い間、もう1人の父親に世話になっていたけれど、その間に一度だけ母さんが別の男の人と歩いているところを見たことがあって」
「そうなのか?」と拓海が驚く。
「何もなかったのかもしれないけど……母さんと歩くとみんなそういう風に……恋人同士のように見えるんだよ」
「あ、分かる気がする……」と日向。
「それが嫌で、僕は大学入学を機に家から出たんだ。あとは母さんと話していると、自分の考えが全部母さんの考えと同じようになってしまう気がして……」
「あの雰囲気で言われるとつい『はい』って言ってしまいそうだな」と拓海。
「翔くん……そうだったんだ」と日向。
「だからひなくん……うちの母さんに流されちゃ駄目だ。僕は実の父親に会えたのは嬉しかったけれど、今さら母さんと3人で暮らす気なんてこれっぽっちもない。きっと父さんだってそうだと思うよ」
「本当……? 僕……このまま怜さんと一緒にいてもいいの……?」
「ま、僕は父さんよりもひなくん……君と一緒にいたいけどね」
「翔……本当に懲りないな」と拓海。
「……ありがとう、翔くん」日向の顔色も良くなってきた。
日向が出て行った後、バーでは奈津江と怜が話していた。
「奈津江……ひなを混乱させるようなことは言わないでくれるか?」
「あら……私、何か言ったかしら……私はね、怜くんとまた会えて……嬉しいのよ」
「はぁ……」
「あの時は……私も分かっていなかったのかも。あなたが忙しかったこと。だけど……今でも一番心に残っているのは……初めてあなたに出会った時かな……」
「悪いが奈津江、バーの準備がある。話はそれだけか?」
「……相変わらずね、怜くん」
「俺には大切な人がいる。翔だって自分で色々と考えながら頑張っている。だから君も……前に進んでくれ」
「……そう。まぁ……いいわ」
奈津江が店を出て行った。
「はぁ……」と大きなため息をつく怜。
「ひな……」怜は日向のことが気になっていたが、バーの準備に取り掛かった。
驚いた。またあの瞳に吸い寄せられそうになった。奈津江はそういう女性だ。少しでも油断すると向こうのペースに巻き込まれる。
だが今の俺には……ひながいる。
ひながいるから……毎日頑張れるのだ。